よんばば つれづれ

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とかく人生は・・・

昨日はスタンディングのミーティングだった。いつも利用する市の施設の会議スペースが予約できず、最近は出席者も少ないからと、フリースペースの4、5人用のテーブル一つが押さえられていた。ところが、こうした時に限って、10人を超える参加があった。こんなに集まることはめったにない。嬉しい誤算だった。

 

さすがにその場所では無理なので、急遽近くの和風レストランに移動した。午後の時間なので私はもうカフェインは摂取できず、ぜんざいを選んだ。甘いぜんざいのあと、つい添えられた緑茶を飲んでしまったところ、どうやらそれが障ったらしく、昨夜はなかなか寝付かれなかった。情けない・・・。

 

いつの間にか、寝ることが喜びではなくなっている。就寝するときはほっとする気持ちがあるが、夜中に目覚め、時刻を確認してまだ夜中の1時、2時だと「ああ、まだ朝ではないのか」とがっかりする。もう一度眠る努力をし、再び目覚めて5時を過ぎていると、「ああ起きられる」とほっとする気持ちになる。働いていたころには、「もっと寝たい、もっと寝ていたい」と思ったものなのに、いまや何時まで寝ていてもいい身分になれたというのに、皮肉なものだ。

 

話がそれてしまったが、昨日のミーティングの参加者Iさんが、福岡で行われた中村医師のお別れの会に、とても多くの人が集まったと話していた。Iさんの友人が、豊橋から日帰りで出席したのだそうだ。おそらく、もっと遠方から泊りがけで参加した方もいることだろう。そして、これからも多くの人の心に、中村医師は生き続けていかれる。

 

生きていて、しかもその人に大きな力があれば、その人の周りに人は集まり、言うことを聞きかしずくかもしれないが、力を失ったり亡くなったりしたときに、周囲の人々はどうなるだろうか。首相のお膝元山口4区で異変が起こり、静かに”安倍離れ”が進みつつあるという。「安倍恥」なる言葉もささやかれ始めたというニュースを目にした。

 

ちょうど今読んでいる『源氏物語』でも、桐壺帝が崩御されて弘徽殿女御側の帝(朱雀帝)が即位して光源氏の力が弱まり、二条院から人が去って一気に寂しくなるという話が展開している。力でなびいた人々というものは、風向きでまたあっけなく宗旨を変える人々である。

 

 

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ちょっと宗旨を変えて・・・ンニャ、寝場所を変えてみました。     byオーガスト

 

中村哲先生のお別れ会の日です。

本日2時から、福岡市の西南学院大チャペルで中村哲医師のお別れの会が行われている。きっと多くの方が先生との別れを惜しんでいることと思う。せめて、はるか東の地から、ご冥福をお祈りしよう。

 

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名古屋でも行われるとのこと。

 

中村先生のなさったこと。援助物資が途中で誰かの懐に消えてしまったり、機械が故障すれば直す部品もなければ技術者もいなくて、無用の長物になるしかなかったりする、途上国への政府の援助とはまるで違う。

 

こうしたことこそが平和への一番の道だと思うのだけれど、その中村先生が凶弾にお倒れになったのは本当に悔しくて残念だ。

 

それでも、残されたペシャワール会の人たちは、先生の遺志を継いで活動を継続していく。私も、支え続ける一人であろうと思う。長者の万灯に勝るかどうか分からない、消え入りそうな貧者の一灯ではあるけれど。

 

「一隅を照らす」。大変好きな言葉である。

久々の源氏

この間読んだ本があまりに軽い調子の作品だった(結局半分もいかずに脱落)ためか、少し重厚なものが読みたくなった。

 

勤めていたころは、持ち運びに便利な文庫本を中心に通勤読書をしていた。そのころはまだキンドルもなく(今はあるのにほとんど出番がないが)、もちろんスマホも持っていなかった。そうして携行する本がなくなると、次の作品を購入するまで『源氏物語』でつなぐという感じで、蔵書の円地文子版と与謝野晶子版は何回か読んだ。

 

電車に乗っている時間は10分もなく、しかも電車は地方都市の小さな電鉄会社にしては珍しく15分おきにあるので、待ち時間も最大で十数分なわけだが、毎日というのは偉大なもので、長い源氏物語も思ったよりも早く読めてしまう。

 

毎日が日曜日の生活になってからは、もっぱら図書館の本が中心になって源氏はとんと読んでいない。そうだ、今度はまた違う作家の訳で読んでみようと思い、田辺聖子さんの『新源氏物語』を読んでみることにした。ネット書店で購入しようと思ったが、蔵書を増やさないことにしているのだから、借りて読んでみて気に入ってからでもいいと気づき、市民館にリクエストした。

 

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通勤していたころと違い、家で読むのだからと1冊にまとまっているものにしたらこのボリューム!1178ページ。

 

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しかも小さな活字で二段組み!長い物語だもの、さもありなんというもの。

 

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美しい表紙で、見返しには金銀をちりばめた和紙が使われた豪華な本だけれど、痛々しくやつれ果てている。

 

田辺さんの訳は、「源氏物語 田辺聖子訳」でなく、「新源氏物語」となっているように、かなり意訳や省略がほどこされ、別な作品になっている。冒頭も桐壺についてではなく、「光源氏光源氏と、世上の人々はことごとしいあだ名をつけ・・・」と、いきなり光源氏の描写から始まる。

 

田辺さんは『源氏紙風船』という著書で、原作の脱落部分を「埋める」作業は、口語訳する時の最大の楽しみのひとつだったと書いていたし、作中の歌はできるだけ会話文の中に組み込み、思い切った意訳や省略をしたことも書いていた。たんなる源氏物語の現代語訳ではないことは知っていたので、読んでみないと手元に置きたいと思うかどうか分からないという不安は感じていた。

 

まだほんの十分の一くらい読み進んだところなのではっきりしたことは言えないが、たぶん蔵書にはなりそうもない。大変読みやすいけれど、私にはいささか興趣に欠けるように感じられる。一番初めに読んだということもあるからか、私にとっては円地文子版が好もしい。今読むとなぜこれを?と不思議に思うのだが、初めて読んだときにはこれでも現代語訳なのだろうかとためらったほど、難しく感じた。けれども、それだけ品格が感じられるような気がする。

 

登場するそれぞれ個性的な女性たちはともかく、私は光源氏も特に好きではないし、薫は優柔不断、恋のためにものも喉を通らなくなって衰弱死してしまう柏木にもイライラさせられ、『源氏物語』のストーリーはそれほど好きではないのだが、こんなに何度も読んでしまうのはなぜなのだろう。やはり千年読み継がれる魅力を持った作品であるということだろうか。

繊細さと図太さと

まりおさんが、HSP(Highly Sensitive Person子供の場合はchild) について書いていらっしゃる。

 

mariostang.hatenablog.com

 

私も少し前に、ドラマにこの気質を待つ子供が登場するのを見て初めて知った。今までにもたびたび書いているように、私自身は神経が図太く、自分でそのことを嫌悪しているのだが、それでもここまで繊細では、さぞ生きるのが大変だろうなと思う。マリオさんが紹介している診断テストを私もやってみたが、やはり結果は「弱」だった。

 

しかしそんな私でも、変なところで妙に細かいことが気になってしまうこともある。テレビドラマを見ていてちょいちょい引っかかるのが、刑事ものに出てくるDNA検査のために検体となるヘアブラシを借りるシーンだ。いつもちゃんと髪の毛がくっついているのだけれど、そんなにみんなヘアブラシの髪の毛をそのままにしておくの?と疑問に思う。特にそのブラシの持ち主が美しい女性の設定だったりすると、少々幻滅を感じてしまう。

 

同じく刑事ものによくある、水際や水中の死体のシーン。寒い季節ならなおのこと、死体役の役者さんに同情してしまう。こういう条件の悪い時はギャラは割増しになるのだろうかなどということが頭をよぎる。

 

ついでながら、最近の死体役の人の演技は本当に真に迫っているが、これは演技の進化なのか撮影側の技術の進歩なのだろうかと気になっている。昔は時々目がぴくぴくしたり、胸がかすかに動いていることがあった。レントゲン撮影でさえ、「ちょっと動かないでください」なんて言われると、かえって意識しすぎてぴくぴくしがちな私は、あんなにぴくりともしないなんてといつも感心してしまう。

 

この他にも、杉下右京氏がポットの紅茶をものすごく高い位置からカップにそそぐシーンでは、あんなことしてワイシャツやネクタイにしずくが飛ばないだろうかと心配でならない。すぐつまみ洗いしないと、紅茶のシミは落ちにくいのに・・・。

 

食べ物をつまんで、そのまま何かの作業に移るシーンでは、えっ、指を拭かないの?塩や油が付いたでしょと気になる・・・と、このあたりはテレビドラマを見ている場合ばかりですね。

 

テレビ以外では、送られてきたダイレクトメールの宛名シールがひどくゆがんで貼られていると、この会社はあまり信頼できないなと思ってしまったり、テーブルランナーを敷いたり、電子ピアノにレースのカバーをかけたりするとき、左右の垂れる長さが均等になっているかが結構気になる。メジャーを取り出して測るまではせず、あくまでも目測の範囲だけれど。

 

この他にも、日常生活できっちりしないと気になることは結構あるが、昔ジュリア・ロバーツの『愛がこわれるとき』という映画を見て、ジュリアの潔癖症の夫がものすごく怖くて、自分の中にも似た要素があると気づきぞっとした。また短い期間だったけれど、お年寄りの世話をした時に、きちんとしたがる人ほど世話をする側にとっては負担になることも学んだので、以来、なるべく自分のそういう部分を「いい加減」に直そうと心掛けているが、なかなかやっかいだ。

 

図太いくせに変なところできっちりしたがるややこしい私だが、人間とは多かれ少なかれそうした矛盾をはらんだ存在なのかもしれない。LGBTとかHSPとか、人間の持つ多様さがだんだん社会に認識されてきたのは、とても良いことだと思う。多様な人の多様な生き方が尊重されて、誰もがいきいきと暮らせる社会にしたいものだ。

 

 

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どこでくつろごうと寝ようと、アタシの自由!  (まとめサイトからお借りしました)

『プロフェッショナル仕事の流儀』井本先生

「子供たちのやる気を引き出す教育」というので興味を惹かれ、録画しておいたものを見た。鎌倉の中高一貫校の数学教師、井本陽久先生の授業風景が紹介された。

 

「できる・できない、正解・不正解に意味はない。大切なのは、自分の頭で考えること」と断言する井本先生。授業では教科書を全く使わず、ノートも一切取らせない。使うのは、生徒の(間違った)解答を元に作られたオリジナルプリントのみで、しかも1時間でたった1問。答えすら出ないまま授業が終わることもあるという授業である。

 

番組で紹介していたのは、任意の二つの小さな円と一本の直線を描き、この3つに接する円はいくつ存在するか、という問題だった。生徒たちは一人で、あるいは他の生徒と一緒になって、授業終了まで夢中になって問題と取り組んでいた。

 

2019年の春、井本先生は27年勤めてきた学校の正職員から非常勤講師になったのだそうだ。授業数を減らし、その分、進学校だけでない様々な生徒のために学外に立ち上げた教室と、22年間続けてきた児童養護施設での指導に時間を割くためだという。朝から夜まで、異なる学びの場を飛び回りながら、思い描く教育を模索している。 変化の激しい、先の見えない時代。生きていく上で、本当に大切にしなければならない学びとは何かを考え続けている・・・。

 

実際に子供たちの顔はいきいきと輝いていて、考えることが楽しくてたまらないという雰囲気だった。でも、こうした変則的な授業が、指導要領でがんじがらめにされた公立校で許されるのだろうか。また、1時間の授業のために10時間もの準備の時間が必要になるというのだから、雑務に忙殺される公立校の教師には、そうした点からも難しそうだ。

 

この他に私が気になったのは、この「考える」授業が成立するためには、考えるための道具となる、四則計算・公式・図形の性質や定理などの基礎知識が必要だが、そうしたことを教える授業の場合は、どんな風にしているのだろうということだ。

 

スポーツでも、競技の技術の練習そのものは楽しくても、体力づくりの基礎トレーニングは面白みに欠けると感じる人が多い。勉強でも同じようなことが言えて、基礎を覚えるのは楽ではない。九九すらつまずいたままの中学生や高校生もいるのだ。できることなら、そちらを扱った続編も作っていただきたいなと思った。

 

しかし、どんなに優れた指導者がいて、それを取り入れたい教師たちがいても、まずは1学級の子供の人数を減らしたり補助の先生を入れたりして、教師の時間とエネルギーを確保しなければ、絵に描いた餅にしかならない。

 

 

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「テレビのオファーを受けたのは、お嫁さん候補が見つかるかもって気持ちもあったからでしょ」と、生徒にツッコまれていた井本先生。

センター試験終了から教育に思いをはせる

大学入試センター試験は今年が最後。その試験ももう間もなく終了する。来年からは新しい試験になり浪人すると不利だとのことで、受験生は志望校のランクを下げたり、受験する大学の数を増やしたりしているという。

 

その来年からの新しい試験も、あちこちから批判を受けて変更が続き、当該の生徒たちは気がもめることだろう。私は関係なかったけれど、私たち1951年生まれが受験した年は東大が学園紛争で入試中止になった翌年で、前年受験できずやむなく浪人した受験生がたくさんいて大変だった年だ。

 

ずいぶん昔から、日本の大学は入るのは大変だけれど、出るのは簡単で、18歳の時が一番優秀だなどと言われる。30年ほど前から18歳人口が減少し始めたので、そのうち日本でも、入るのは簡単で出るのは大変という望ましいあり方になっていくだろうと思っていたのだが、いくら受験生が減っても特定の大学に人気が集中し、受験でふるいにかけなければならない状態は変わらなかった。

 

しかし、いよいよ時代は大転換点に来て、もはや人間のする仕事は何が残るだろうかという状況になっている。農業から工業そしてホワイトカラーへと変遷してきた「有利な仕事」の、その「ホワイトカラー」の大部分が今後AIにとって代わるという。そんな時代に、一部を除き「就職予備校」のようになりはてている大学に入ったからと言って、どれほどのメリットがあるだろう。真に学びたいことがあるのでなければ、無理に進学する必要などないように思う。

 

豊橋市ではある公立小学校でこの4月から、国語と道徳を除く全ての授業を英語で教えるイマージョン・プログラムというものをスタートさせるのだそうだ。今までも政治や社会情勢で子供たちは振り回されては来たが、これはあまりにも乱暴ではないかと思う。「英語漬けにして国際的コミュニケーション力を育成する」のがねらいだというのだけれど、関係者たちの思考力が心配になってくる。

 

あちこちで子供食堂を運営しなければならないほどの貧困問題に、いじめや不登校ひきこもり。ばらばらなように見えても、根っこは同じだ。教育や子育て、つまり子供にかける予算が少なすぎるのだ。自分たちのためには湯水のごとく税金を使いながら、こんなにも子供のためにはケチル政治で、口先だけ少子化対策を叫んだところで、子供が増えるわけがない。

 

政策の第一に教育を謳う党があれば迷わず応援したいと思うのだけれど、教育では票にならないと思うのか、なかなかこれを前面に押し出す党は出てこない。消費税減税だの撤廃だのと、国民を安く見ないで欲しいものだ。これでは札びらで頬をたたく政権党と同じではないか。10%の消費税は計算しやすくて便利だし、なんならややこしい軽減税率も廃止してよいから、そのかわり、本当に援助の必要な人には負の所得税なりでカバーし、子育てや教育を充実してくれるのなら、私は喜んで10%の消費税を払おう。

 

 

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市民館の窓 お正月バージョン

エールを送る

元旦に届いた友人からの賀状に、「年末の検診で乳ガンが発覚 元気だけが取り柄の私としては、本当にショックです」とあった。一昨年、子供の頃のお誕生日会の記憶を頼りにサプライズのプレゼントを贈ってくれ、昨夏には15年分のお喋りを楽しんだあの友人だ。

yonnbaba.hatenablog.com

 

yonnbaba.hatenablog.com

 

一昨年、股関節の手術が必要と言われた時には私も驚いたが、それとは比べものにならないくらい大きな衝撃だろうと思う。いまや3人に1人、いや女性は2人に1人が癌にかかると言われる時代で、手遅れにならない限り治癒する病気になったとはいえ、乳癌は女性にとって特別な感情を伴う病気だ。

 

彼女とは小学校から高校まで一緒だったのだけれど、いつも元気で周囲を明るさで包む人だった。私の記憶の中には笑顔の彼女しかいない。きっと家庭においても明るい妻でありお母さんだったことだろう。ご主人やお子さんに支えられて、病と闘っていることと思う。私にはこの地からエールを送ることくらいしかできないが、楽しい再会の日が一日も早く来ることを祈ろう。

 

 

阪神淡路大震災から今日で25年。あの時刻、我が家では高校生だった次男がアルバイトの朝刊の配達に行っていた。大きな揺れに驚いて飛び起き、不安な思いで次男の帰りを待ったことを思い出す。

 

人生は、いつ誰の身の上にも、何が起こるか分からない。ちっぽけな一人の人間にできることはしれているが、それでも、弱い者同士支えあえたらと思う。それぞれの地で、さまざまな試練に立ち向かっている人に、せめて心からのエールを送ります。

 

 

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猫好きだったら手に取らずにはいられない表紙。ヒロインはたぶん美人。そして婚約者に振られたとはいえ、しっかりした実家があり、やりがいと責任のある仕事まで持っている恵まれた人だ。でも、少々都合の良いストーリーにあまり反感も覚えず感情移入できたのは、周辺の描き方のうまさとライちゃん(猫)のかわいらしさか。

結末もとっても素敵だった。     『瞳のなかの幸福』小手鞠るい