美しい唱歌が忘れられていく
うっかり者の私は雲龍さん(id:umryuyanagi104)がブログを再開なさっていたことに2か月余も気付かずにいたのだけれど、今朝id:takikioさんのところのコメント欄で知って、早速拝見した。
この場にいらした方々がどれくらいの年齢層か知らない(でもお召し物から判断すればそんなに・・・ごめんなさい)が、それにしても驚く。「夏は来ぬ」の歌をほとんどの人が知らないなんて!「夏がく~れば思い出す・・・」(もしかすると、これも知らないのか?)と同じくらい「夏」といえば思わず口ずさんでしまうくらいポピュラーな歌だと思う。これは私が昔の人だから?
大分前に「我は海の子」が歌詞が難解なので小学校の唱歌から外されたと聞いて、文科省(まだ当時は文部省だったか)の無粋さに呆れた。おそらくその調子でどんどん昔からの美しい唱歌が外され、代わりに新しい巷のヒット曲などが採用されて行ったのだろう。今や卒業式も「仰げば尊し」や「蛍の光」はほとんど歌われないようだ。
「兎おいしかの山・・・」の「ふるさと」は、子供の頃残酷な歌だと思っていたという定番のような笑い話がある。楽譜の下に書かれた歌詞とは別に、「兎 追いし かの山・・・」と詩だけ書いた部分があったはずだけれど、多くの子供がそんなところはちゃんと見ないで、耳から入る音だけで「へえ、うさぎがおいしかったんだ」と思いながら歌っていたのだろう。
やがて中学や高校に入って古文と出合い、あああれは兎を追ったということだったのかと合点する。「ふるさと」の歌詞も古文の「追いし」という言葉もスルッと深く腑に落ちていく。
この訳も分からずしていたことが、「ああ、これはこういうことだったのか」とかなり後になって納得するということが重要なのではないかと私は思っている。新しいことと一緒に意味や理屈まで全部同時に理解するというのは、実はかなり高度で、小学校の場合それが無理なくできるのは、多分5段階評価で5がもらえるくらいの子だけではないかと思う。
とりあえず形だけ覚える、方法だけ覚える。このほうがより多くの子供に無理なく入る。
私が習った頃はこの式が多かった。小数の掛算は、点がないものとして計算し、答えが出たら小数点以下の桁の数だけ左から数えて点を打つ、と教えられた。だから整数の筆算まで分かった子には、小数点が入っても何の混乱もない。
ところが長男の参観日に算数の授業を見て驚いた。ちょうどこの少数の掛算だったのだが、先生の説明があまりに理屈っぽくてややこしく、大人の私が聞いていても混乱するものだった。これでクラスのどれだけの子が理解できるだろうと思った。
そんなことより昔のように教えればほとんどの子はすぐできるようになるだろうに、なぜこんな小難しい理屈まで言ってわざわざややこしくするのかと不思議だったが、それがその頃(すでに30年も昔だ。いま現在はどうなのか)の指導要領に沿った教え方だった。理屈、理論を理解させる。
国語でも意味など解らなくても、まず美しい言葉や良い文章に触れさせる。声を出して読ませる。暗唱させる。語彙の少ない低学年に無理に作文など書かせるよりよほど有用だ。ずっと後になって「おいしかった兎」のように「ああ~っ!」という体験をして本当の自分の語彙として身に付く。
日本人のかなりの年齢層の人までが「夏は来ぬ」の歌を知らないのでは、社会全体の日本語の語彙が少なくなっている現象にも納得がいく。
はやりの言葉も若者の仲間言葉も、はしかのようにある時期に経験すればスッパリ卒業して、大人に倣ってきちんとした言葉遣いができるようになったものだけれど、若さに異常に執着する社会で、いい年の大人もこぞって若者言葉を使うため、若い人たちはお手本が無くなってしまった。
「夏は来ぬ」を三番まで歌っていただいた雲龍さんの生徒さんたちは幸せだ。この日のブログを読むだけでも学びがいっぱい。本当に、いくつになっても知らないことを知るのは楽しい。
雲龍さん、ブログの再開ありがとうございます。これから少しずつこれまでの分を読んでいこうと思います。じっくり味わいながら・・・。
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