よんばば つれづれ

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憮然としてしまう話

高石ともやさんも遠くなりにけり・・・という気分だ。私(1951年生まれ)あたりから上の世代には懐かしい「受験生ブルース」は、「♪おいで皆さん聞いとくれ 僕は悲しい受験生 砂をかむような味気ない 僕の話を聞いとくれ」と始まる。

 

文化庁国語に関する世論調査についてのニュースで、「砂をかむよう」の本来の意味を問われ、32.1%が本来の意味である「無味乾燥でつまらない様子」と回答し、56.9%が「悔しくてたまらない様子」と回答したと報じていた。

 

新しい解釈のほうが6割近くを占めるのには驚いた。60代以上で本来の意味である「無味乾燥でつまらない様子」と回答した割合が高かったそうだが、それには高石ともやさんがかなり貢献しているのではないかと思う。「受験生ブルース」の大ヒットが無かったら、この結果はもっと悲惨だったかもしれない。

 

毎年発表になるこの調査結果を、私は興味深く見ている。なんとなくの感想に過ぎないが、平成7年から行っているというこの調査、初めのころは少数派だった新しい解釈をする人の割合が、年々高くなってきている気がする。調査対象となる言葉は毎年変わるので、こうした傾向は、だんだん日本社会全体の使用語彙が減って、若い世代が旧来の使い方を耳にする機会が減っているために起きる現象ではないだろうか。つまり、いまやいい歳の大人世代の語彙が相当やせ細ってきているように思う。

 

私自身、子供の頃に父や母がしゃべっていた言葉を思い出すと、ことわざやら故事成語やら豊かなオノマトペ(母など時には独創のものさえ!)を織り交ぜ、実に豊かだったように記憶している。茶の間にテレビが進出してくる前は、夕食後に家族のにぎやかな団らんがあり、長子と末子で一回りほども歳の開きがある兄妹と両親の6人での会話も、結構言葉のトレーニングになっていたのではないかと思う。

 

赤ちゃんの時から耳で聞いて言葉を収集し、学校で読み書きを学び、日常生活で使うことで言葉は本当に自分のものとなって身についていく。現代は、家庭においても学校や社会においても、ごく少ない語彙にかたよっているような気がする。

 

 

先日話をしたトルコ人のTさんが、将来子供が出来たら、何語を母国語にすればいいか悩んでいると言っていた。Tさんが最も細やかに表現できるのはやはりトルコ語で、ご主人はやはりインドネシア語。母国語の違う同士が結婚すれば当然生じる問題だろうけれど、他の方々はどうなさっているのだろう。いろいろ話せるが故の悩みで、日本語しか話せない私には、とんと無縁のことだけれど。

 

ちなみに、「憮然」は28.1%が本来の意味である「失望してぼんやりとしている様子」と回答し、56.7%が「腹を立てている様子」と回答したそうだ。

 

 

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ベランダのプランターで眠りこけるママ猫。あれからちっとも子猫を見ないのだけれど、どうなったの? ここが気に入ったようだから、ゼラニウムを増やす計画は中止にしようか・・・。

こんなにくつろいでいるようでもとても警戒心が強く、私が動くとサッと逃げてしまう。これはガラス戸の内側からそっと撮影。