よんばば つれづれ

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『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子著

今日の豊橋は空は青いけれど風がとても強い。豊橋らしい冬の日ともいえる。昨日また青森からお米やリンゴが届いたので今朝お礼状を投函に出たのだが、向かい風になると、意識的に頑張って足を出さないと進めないほどだった。

 

それでも衣料品の防寒性が進歩したおかげで、まったく寒さは感じない。上はヒートテックにチュニックセーターとコート、下は裏ボアのパンツだけなのに、ポストまで早足で行って来たら背中がうっすら汗ばむほどだ。青森に住んでいたころ、冷え性の私はパンストに厚手タイツを重ねさらにズボンをはき・・・上も下も4枚も5枚も重ね着して、着替えの時はたけのこの皮をむくようで大変だったのが懐かしい。

 

さて、落ち込んでいた気持ちも、身体の回復とともに徐々に平常に戻りつつあるようで、今日はやっと少し頑張って掃除をした。体が不調だと心も弱く後ろ向きになりがちなようで、やはり健康は大切だとひしひしと思う。

 

そんなわけで、面白い読書だったので書き留めておきたいと思いながら書けなかった、『おらおらで・・・』の感想をやっと記す。

 

主人公は74歳でひとり暮らしの桃子さん。

結婚を3日後に控えた24歳の秋、なぜかこのまま親の望むとおりに結婚する人生に疑問を感じ、東京オリンピックのファンファーレに押し出されるように、故郷を飛び出してしまう。そうして身ひとつで上野駅に降り立ち、住み込みのアルバイトを転々とする中でうっとりするような美しい男、周造と出会い結婚する。

 

故郷を捨ててから50年。息子と娘は独立し、惚れに惚れた夫は思いがけなくぽっくりと死んでしまい、桃子さんは一人取り残される。「この先一人でどやって暮らす。こまったぁどうすんべぇ」40年来住み慣れた都市近郊の新興住宅で、ひとり茶をすすり、ねずみの音に耳をすませるうちに、桃子さんの内から外から、ジャズのセッションのように湧きあがる声が、東北弁(遠野弁)で紡ぎ出される。

 

この東北弁というところがミソである。もしもこれを標準語で書いていたら、きっと気の滅入る物語になってしまったことだろう。印象的な題名や、作中に「虔十」という名が出てくることからも分かるように、著者若竹さんは宮沢賢治を強く意識して書いている。賢治の東北弁は独特の静かさや悲哀を感じさせるのに、桃子さんの東北弁は力強くユーモアを感じさせる。

 

最愛の夫に突然に逝かれて、「亭主が死んで初めて、目に見えない世界があってほしいという切実が生まれた。何とかしてその世界に分け入りたいという欲望が生じた。・・・体が引きちぎられるような悲しみがあるのだということを知らなかった。それでも悲しみと言い、悲しみを知っていると当たり前のように思っていたのだ。分かっていると思っていたことは頭で考えた紙のように薄っぺらな理解だった。自分が分かっていると思っていたのが全部こんな頭でっかちの底の浅いものだったとしたら、心底身震いがした」というほど打ちのめされ、「おらは思い知らされだ訳よ。生ぎでぐのはほんとは悲しいごどなんだ」とつぶやく桃子さん。
 

娘がお金を貸してほしいと言ってきたとき、返事に躊躇した桃子さんに娘は「お兄ちゃんならすぐ貸すのに」となじり、だからお兄ちゃんの名を出されてまんまと詐欺にかかったのだと非難する。

 

桃子さんは、女は母として生きすぎるために、息子に息苦しい思いをさせ、娘に自分の果たせなかった夢を押し付けたと反省する。その苦い思いのすえに、「自分より大事な子供などいない。自分がやりたいことは自分がやる。簡単な理屈だ。子供に仮託してはいけない。仮託して、期待などという名で縛ってはいけない」と思いいたる。

 

桃子さんは、「人はどんな人生であれ、孤独である」というひとふしに尽きるという心境にいたる。そして、もう孤独など十分に飼いならし、自在に操れると自負してもいたはずの孤独が、桃子さんの中で時に暴れる。いったい昨日とどう状況が変化したというのか、と自問する桃子さんを見て、数年後の自分を重ねうすら寒さを感じた。

 

惚れぬいたはずの夫を失い、真の悲しみや孤独を知った桃子さんだが、それでも夫周造の死に一点の喜びを感じている自分を発見し、なんと業の深い人間かと思う。「おらは独りで生きでみたがったのす。思い通りに我れの力で生きでみたがった。それがおらだ。おらどいう人間だった」。

 

このあたりが女性の強さかも知れないと思う。最愛の人を失い、嘆きながらも一点の解放を感じ、独力で生きる楽しみを見出す。

 

「もう今までの自分では信用できない。おらの思ってもみながった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも。」

 

孫のさやかとのやりとりの終章は、母から娘そして孫へと、確実に繋がっていく「なにか」を感じさせ、未来への希望も感じさせてさわやかだ。

 

 

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