よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

重箱読みって知りませんか?

昨日も書いたうなぎ屋さんにうなぎを食べにいったときのお話です。テーブルにおいてあった札を取って「おかえりのさいは このふだを ちょうじょうに・・・」と読んでいた孫が、「ちょうじょうって何?」と言います。父親が「ちょうじょうじゃなくてちょうばでしょ」と言いながらその札を見るとやはり「帳場」でした。私が何気なく「そうね、熟語として普通に読めばちょうじょうって読んじゃうよね、重箱読みだものね」と言うと、今度は「重箱読みって何?」と言います。「熟語は普通は音読み+音読みだけど、重箱は音読み+訓読みでしょ。そういう熟語の読み方を重箱読みって言うのよ」と教えると、息子まで「へ〜、知らなかった!」と言います。嫁も知らなかったと言います。あら、学校で習わないのかしら。私は学校で覚えたように記憶しているけど、やはりいつの間にか学校で教えることが減っているのでしょうか。


このことを書こうと思ってちょっとネットで調べると、Wikipediaには

重箱読み(じゅうばこよみ)は、日本語における熟語の変則的な読み方の一つ。語の前半を音として、後半を訓として読む「重箱」(ジュウばこ)のような熟語の読みの総称である。原則として規範的な読み方ではないとされるが、現代の日本語においては、和語と漢語が結合した混種語も日常語として深く浸透しており、慣用になっているものも少なくない】

とあります。私が学んだ頃にはまだ特殊性が強く意識されていたけれど、息子や嫁が学んだ頃にはもう混種語がかなり増えていて、重箱読みだの湯桶読み(ゆとうよみ:重箱読みの反対)だのと取り立てて言うことでもなくなっていたということでしょうか。

古くからの言い回し、ことわざ、慣用句など、日本語がどんどん絶滅していっているような気がします。それは私たち年配の者があまり日々の生活の中で使わなくなっているからということが大きく影響しているでしょう。それに世代を超えた会話がとても少なくなっているような気もします。今日の新聞にも単身世帯が3割を超えているという記事が出ていました。昔は何世代もが同居する大家族で必然的に子供の時から大量の言葉のシャワーを浴びて育つことが出来ました。私は今で言う核家族で育ちましたが、母が「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とか「灯台下暗し」「あとの後悔先に立たず」とか日常の会話の中にやたらと諺や格言のようなものを入れて話す人だったので、随分日々の生活の中で身に付けたように思います。豊かな日本語を残すためにも古いテレビ番組を再放送するチャンネルは有効のような気がしますね。

とっちぱれ(津軽弁でオシマイ)