よんばば つれづれ

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スタンディングに思わぬ差し入れ

木曜日のスタンディングは9人の参加だった。昨日は休みで、土曜日の今日は午後4時からだったが、参加は10人でほとんど増えなかった。曜日に関係なく初めのころのまま、毎日6時に立つ人が何人かいて、木曜日はその人たちも入れての9人なので、今日も時間が6時からなら12、3人にはなったのだろうが。

 

でも、人数は10人だったけれど、今日は久しぶりにギターと歌のMさんがいたので、群読アピールはしなかったが賑やかに行うことができた。

 

そして何より今日嬉しかったことは、通りすがりの方が、全員分のペットボトルのお茶を差し入れして下さり、「豊橋でもこうして頑張ってくれていること、とても嬉しいです!」と声をかけてくださったことだ。なんと、東京から来た方だった。

 

東京は抗議行動の参加者数も多く、ニュースにもなったりするので人々に知られるが、豊橋のような地方都市で小規模に抗議行動を行っていても、ニュースにもならなければ、議事堂の中の人に届くわけでもない。参加している私たち自身、無力感にとらわれてしまったりするが、やはりこうして行動していることは無意味ではないと痛感した。

 

通行人の中にも、少ないながらも、軽く会釈したりそれとなく同意の意思表示をしたりしてくださる方もいる。もちろん圧倒的に多いのは無関心な人だけれども。

 

明日の日曜日も午後4時から。

 

 

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今日の私のプラカード。A3サイズのスケッチブックを見開きで使用。

をみなごに花びら流れ

我が家から徒歩15分ほどの緑地公園に、桜を見に出かけた。戦争中戦闘機の燃料用にと松根油を採ったため、今も松の幹に大きな傷痕が残っていることを以前紹介した、あの公園だ。

松根油(しょうこんゆ)哀話 - よんばば つれづれ

 

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戦争から72年の公園の春爛漫の風景は平和そのもの。いつまでもこののどかさが続いてほしい。

 

そして、ここに来て、この桜の景色を眺めると、どうしても2011年の桜のころを思い出す。ちょうど息子一家が来ていて、みんなでここに散歩に来たのだ。自分や周囲のあまりに幸せな風景に、思わず心が痛んだ。そしてそのことを当時担当していた会社のブログに書いた。(以下はその時のブログ内容)

 

2011.4.11

辛い思い悲しい思いをしている方々のために、
せめて一日も早く暖かい春が来てくれたらと思うのに、
今年は春が来ないのだろうかと思えるほど、
いつまでも寒い日が戻ってきていました。

でもいつの間にか、ちょっと前まで固い蕾ばかりだった桜もちゃんと満開を迎えました。


昨日の日曜日、家族と高師緑地公園に散歩に出掛けました。
公園の中にある池にかかる橋の上に立って目を上げると、
青い空を背景に満開の桜並木。
その手前の緑の草に覆われた土手には犬を遊ばせる人がいて、
そのそばで小さな女の子がシャボン玉を飛ばしています。
白い猫を抱いてそぞろ歩いているおばさんがいます。
私が立っている橋の上では小さな男の子たちがザリガニ釣りに興じています。
土手の女の子が飛ばしたシャボン玉が、フワフワと池の上をただよっていきます。

のどかなのどかな日曜日。
なんて幸せな光景だろうと、ふと涙がこぼれそうになりました。
被災された方々にもこんなのどかな休日を楽しめる日が早く戻りますように。


あはれ花びら流れ
をみなごに花びら流れ・・・

 

 

そう、桜の花びらがしきりに散り落ちるさまを見ると、この三好達治の詩もどうしても思い出してしまうものの一つだ。この時も最後に記しているが、今日も舞い落ちる花びらを受けて歩きながら、この詩を口ずさんでいた。

 

震災からたった一か月なのに、このあたりはこんなにも、申し訳ないようなのどかな日々があった。被災地は、とりわけ原発の影響を受けている被災地では、いまもご苦労の多い生活を余儀なくされていることだろうし、突然命を奪われた方々は何年たとうと決して戻ることはない。私も、何年たとうと、桜を見るたびこの時の心境を思い出すことだろう。

 

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柔らかな日差しのもと、アジア系と思われる若い女の子たちが、日本の桜を楽しんでいた。裏ボアの冬のコートを着ている子もいれば、ノースリーブのミニワンピースの子もいて、明るく語らいながら写真を撮り合っていた。

少年と特攻兵の交流『青空に飛ぶ』鴻上尚史著

父親の転勤で、小学校高学年の何年かをアメリカで過ごした少年友人(ともひと)が主人公だ。日本では帰国子女はいじめに遭いやすいと聞き身構えて日本での中学生生活を始めるが、友人は幸いにもそうならなかった。というのも、友人が中一の2学期に編入学したとき、クラスにはすでにいじめのターゲットになっている少年、松田がいたからだ。

 

やがてその少年は、自宅マンションのベランダから飛び降りて死ぬ。するといじめは次の標的に移る。新たな標的からまきあげたお金で買ったアイスを、友人だけが食べることを拒否すると、翌日から教室の空気はガラッと変わり、友人が新たないじめの対象となっていた。

 

絶対に証拠が残らない、先生や大人たちには見つからない、陰湿で凄惨ないじめが毎日毎日続き、友人も初めて「かつて松田少年が生きていた地獄」を知り、同じように「飛んでしまいたい」という思いにとらわれるまで追い詰められていく。

 

友人は、家族で訪ねた札幌の伯父の家で、偶然伯父の見ていたテレビ番組で「神風特攻隊」を知る。しかも伯母が、自分の勤める病院にもと特攻隊員の有名な人がいて、東京からマスコミの人が取材に来ていたという。佐々木友次さんという人なのだそうだ。

 

友人は自分が学校で「特攻隊ゲーム」というものをさせられていたこともあって、その佐々木友次さんという人に興味を待つ。なぜ命と引き換えに突撃させられた特攻隊員なのに、友次さんは生きて帰ることができたのか。インターネットで調べたり、本を買ったりして友人は友次さんについて調べていく。

 

休みが終わり東京に戻って学校に行かなければならなくなると思うと、友人は伯父の家のある札幌で高い建物を探した。そして、高層マンションの非常階段の踊り場の手すりに腹ばいになり、あとは左足の重心をわずかにずらせば「飛べる」というところまでいった友人だったが、これでもういつでも飛べるのだから、その前にもっと友次さんのことを知りたいと考える。なぜ友次さんは生きることができたのか・・・。

  

やがて友人は、自分でも不思議なほど友次さんに引き付けられた理由として、友次さんが日本人らしくないからだという考えに辿り着く。「日本人は、大きなものに従って、じっと黙っている人達だ」というのが友人のイメージする日本人だ。

独りでは絶対に多数とは戦わない。戦う時は、いつも集団だ。アメリカのクラスメートみたいに、いじめる奴に独りで戦いを挑む奴は誰もいない。空気を読んで、ムードに流されて、みんな周りの顔色をうかがう。そして、黙って、教室の空気に従う。

 それは、先生も同じだ。空気に対して、誰も独りで戦うことはない。

 雨の日に飛んだ松田が、本当はいじめられていたなんて、どの先生も薄々気付いていたはずだ。でも、誰も言い出さない。独りで学校と戦う人はいない。

  

どんなに理不尽だと思っても、みな命令されれば命を捨てて突撃していったなかで、友次さんは独りで戦うことができた。その強さがどこから来たのを友人は知りたいと思い、伯母さんの勤める病院に行って友次さんの病室を探し、直接話を聞く。

 

東京の学校で友人が壮絶ないじめを受ける部分と、札幌の病院で友次さんに会って話を聞く部分とが交互に語られていき、行き違いや偶然も重なって、事態はさらに進展していく。

 

 

現代のいじめも、戦争中の末端の兵士に対する扱いもあまりにひどく、読んでいてつらくなるほどだけれど、物語は希望の持てる終わり方で救われる。

 

この物語はいじめや戦争についてがテーマかも知れないが、友人が両者の共通項として考えた「独りでは戦えない、声を上げられない、日本人」という点が、私には最も心に響いた。

 

始まりはいつなのか分からないが、少なくとも戦争中から、72年が経過した現在まで続いている、この主体性のなさこそが、いまの社会の諸問題の根本原因ではないかと思う。これをなくさない限り、安倍政権を倒してもまたそれに代わる独裁的政権が生まれるだろうし、官僚の忖度もなくならないだろう。

  

今までもいじめを扱った作品を読んり、テレビドラマでも見ているが、この作品を読んで、あらためて現代のいじめのひどさに驚かされた。また校則についても日米の違いが描かれているが、日本のそれのバカバカしさと、いまだにそうしたくだらないものが残っていて、教師がそれを守らせることにエネルギーを注いでいる愚かさに悲しくなる。

 

すべての教育に関わる人に読んでほしいものだと思うが、幼稚園児が一糸乱れず首相を応援するような教育を「美しい」「素晴らしい」と感動するような方々の心には、たとえ読んだところで何も届かないのかもしれない。

 

 

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鴻上氏の作品は初めて。中学生の主人公の視点で書かれているからか、文章は非常に平易で読みやすい。仮名遣いの違うところや、文中にたびたび出てくる「うなづく」という表記が、現在は許容の範囲ではあるらしいが、どうも目に入るたび気になってしまうという点はあったが、素晴らしいテーマで、なんとなく抱いていた著者のイメージが良い意味で裏切られた。

 

 

 

空しい虚しい証人喚問

昨日は出かけたので証人喚問の中継は見られなかったが、家にいたとしても、視聴に耐えられず、途中でスイッチを切っていただろう。ニュースで報じられたその映像は、予想していた展開ではあるが、あまりにひどいやりとりで、国民が馬鹿にされている気がした。

 

佐川氏は、おそらく町のお店で買い物をすることもないお方なのだろう。いつも運転手付きの黒い車で移動して、電車やバスに乗るということもないのだろう。だって、これほど顔が売れてしまったら、普通はとても外に出られない。一般市民に顔を見せられない。平気であのような証言ができるというのも、下々に顔をさらす心配などないような生活圏で生きているお方なのであろうと推察する。

 

「佐川」はありきたりな姓でもないが、まあ取り立てて珍しいわけでもないのも運が良かった。いつぞやの耐震偽装事件のような珍しい姓であれば、家族もさぞや肩身の狭い思いをすることだろう。

 

「重大な問題が山積しているのだから、こんなことはもういい加減にしたほうがいい」という意見もある。確かに昨日の証人喚問なども、つまらない茶番で肝心なことは何一つ明らかにならず、無駄と言えば無駄かも知れない。けれども、ますます疑惑は深まった。何ら恥じることがないのなら、すべて堂々と話せたはずなのだから。つまり、47回も証言拒否をせねばならないほど後ろめたいことをしているわけで、これほど信頼できなくなってしまった内閣や官僚に、その「重大な問題」を任せられるのかということこそが問題だ。

 

森友問題が発覚した昨年から、時間的にも経済的にも非常にもったいない事態が続いている。いや、それ以上に、失われなくてもよい人命まで失われた。その根本原因が、李下に冠を正した首相夫妻にあるのは明白だ。そのことに、人として責任を感じてほしいと切に思う。それもせずして道徳を正課になどと、よく言えるものだ。「美しい国」にと言うのなら、その「美しい国」にふさわしいトップであってほしいものだ(すっかり手垢にまみれてしまったこの「美しい国」という言葉の気の毒なこと)。

 

 

昨日書き忘れたが、帰りの渥美線でのこと。ほんの10分に満たない乗車時間なので、普段は特に座ろうともしないのだけれど、昨日は名古屋まで出かけた気疲れもあったからか、乗り込んだとき無意識に空席を目で探した。私のその行為に目をとめたからか、あるいはたんに高齢者と思われただけかもしれないが、高校生の女の子に席を譲られた。初めてのことで「えっ?!」と思ったけれど、せっかくの好意なので、ありがたく甘え座らせていただいた。

 

その女子高校生は、「成章高校」と書かれたリュックをしょっていた。だとすると終点の田原あたりまで乗っていくのだろうか。途中からは空いて、また座れるだろうか。私の利用する駅に着き、ドアのところに立っていたその子に、もう一度「どうもありがとう」と言って電車を降りた。世を騒がす大人たちと違って、その子の人としての魂の高さに嬉しくなった。

 

人の言動が、周囲の人を不快にもし、幸せな気持ちにもする。心しなければと思う。

 

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私利私欲にまみれる人間って、愚かね。   byオーガスト

 

名駅で迷子

個人的な用事で名古屋に出かけた。約束の時間は12時だけれど、少々気の張る用件なので万一にも遅れることのないよう、10時には家を出た。

 

その甲斐あって、11時40分には名古屋駅に到着。約束のお店はホームページで「名駅から徒歩5分」となっていたし、駅からの行き方は特に書いてないので、誰でも簡単に分かるのだろうかと思っていた。超のつく方向音痴の私だから、それでもやっぱり分からないかもしれないが、たぶん尋ねれば教えてもらえるだろうし、20分もあれば十分時間までに辿り着けると思っていた。

 

ところが、いざ歩き出してみるとどちらに行けばよいかまるで分らないし、目につく付近の案内表示を見ても目指す店名もその店のあるビル名もない。目の前のお店に入って聞いても、分からないと言う。ショッピングバッグをたくさん抱えた通りがかりのご婦人に聞いても、「このあたりは最近すっかり変わってしまって、私もよく分らないんですよ」と仰る。

 

結局目的のお店に電話して教えてもらった。「ミッドランドスクエアお分かりになりますか?」「はあ?」「名鉄百貨店は?」「あ、それならMEITETSUと書かれたビルが見えてます」「その向かい側の新しいビルがミッドランドスクエアで・・・」といった具合の手間をおかけするやり取りの末、めでたく目的地にたどり着くことができた。15分遅刻、自分の方向音痴度を甘く見てしまったか。

 

このピッカピカのミッドランドスクエアビルの一階にはディオール・グッチ・ルイヴィトンなどがずらっと入っていて、さびれた駅前しか持たない豊橋から行くと、別世界の感がした。東京まで行かなくとも、せめて名古屋まで出かければ、多くの選択肢の中から買い物ができる。おしゃれは好きではあるのだけれど、やはり私には名古屋ははるか遠い街だ。

 

 

名古屋での用事を済ませ豊橋まで帰り着いたのが5時半。30分カフェで時間をつぶして、6時からのスタンディングに参加して帰宅した。「証人喚問、佐川氏のあとは昭恵夫人を」と求めるため、”言い出しっぺ”がショートメールを送れる人には改めて呼びかけたのだけれど、残念ながら参加は20人ほどだった。

 

 

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ミッドランドスクエアビル(私が行ったのは、この少し先のもっと小さなビル)

リフォームひと通り終了

去年の秋の浴室の塗り替えに始まった(いやもっと遡れば、おととしの襖の張り替えとシャワートイレの交換が始まりだ)リフォーム、先月キッチンの壁と天井の塗り替え、床の張り直しをして、今日建具屋さんが来て、頼んでいたキッチンのドアと客間のドアを交換してくれて、とりあえずのリフォームがひと区切りついた。

 

多少不満の残るところもないわけではないが、それでも随分気持ちよくなった。こんなことなら子供たちが暮らしていた頃にこうしたかったと思うけれど、その頃は賃貸物件でリフォームなどということは考えもしなかったし、そもそもそんな経済的余裕もなかったのだから致し方ない。

 

これで、私が一人でここで暮らす間はなんとか持つだろうか。あるいは、今回は何もしなかった居間に、もうしばらくしたら手を入れる必要が出てくるかもしれない。

 

先日見たウィリアム・モリスの美しい邸宅などを思うと、我が家などまさに「ウサギ小屋」にすぎないけれど、今の私には地球上で一番くつろげる場所だ。出かけることより家にいるほうが好きな私は、このささやかな自分の空間を、せいぜい居心地よく整えて、コーヒーを飲みながら本を読んだり、好きなドラマを観たりしていれば、十分幸せだ。

 

あとは社会のもろもろの問題が解決されれば、どんなに心が安らかになることかと思うが、こればかりはちっぽけな私の力ではいかんともしがたい。

 

philo1985さんがこのところずっと「デスノート」について書いていらっしゃる。公共善の促進のために悪をなすものを「デスノート」に書いて抹殺していく。そうして悪人のいない理想郷を求める。この私利私欲のためでなく公共善のために「デスノート」を使用することに賛成するかと問う。

 

そんなふうにして、世に悪をなすものをバッサバッサと始末していけたらどんなにスッキリすることかと思う。思うけれども、それはやはりだめだ。面倒でも、時間がかかっても、やはり合法的で民主的な手段でより良い世界に近づいていかなければならない。

 

そして、人間である限り、完全なる理想郷、悪をなすものが全くいない世界には永遠にたどり着けないだろうが、今よりは少しマシな世界にするために、自分にできる努力を続ける。それは結局誰のためでもなく、自分の心が少しでも安らぐためだ。

 

 

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洗面所は自分でリフォーム。既設のミラーキャビネットがくたびれたのではずし、通販で購入した丸いミラーを取り付け、ウオールシールで水族館風に遊んでみた。飽きたらまた簡単に模様替えできる。

 

図書館のイベント「そうだ、ナカムラさんに聞いてみよう!」に参加

豊橋市中央図書館の「そうだ、ナカムラさんに聞いてみよう」というイベントに参加した。ナカムラさんとはノーベル文学賞の発表時になると、ハルキストが集まって待つことで有名なブックカフェ「六次元」の店主ナカムラクニオさんのことだ。だから、このイベントのタイトルも、村上さんの人気サイト「そうだ、村上さんに聞いてみよう」をもじったのだろう。

 

前半はナカムラさんのトークだけれど、始めに「何に興味を持っていますか?」ということで30人ほどの参加者一人ひとりに発言を求めた。結構饒舌に語る人もいるし、しかもその話にナカムラさんが興味を持つと質問をはさんだりもするので、この部分だけでもかなりの時間だった。

 

そのあといよいよナカムラさんへの質問。今度はさっきと逆の順番で、また全員に聞いていき、すべての人にご自分の知識や経験から答えていかれた。ほとんど「パス」と言う人はなく、みなさん何かしら質問し、こういう時に起こりがちな気まずい沈黙が全くなかったのは少々驚きだった。

 

短い休憩をはさんで、後半は椅子を円形にして、各自持参した(原則として図書館から借りた)本の紹介となった。古今のフィクション・ノンフィクション・漫画・絵本とバラエティーに富んだ本が紹介された。

 

私はちょうどリクエストして届き、読み終えてもいた鴻上尚史さんの『青空に飛ぶ』を紹介した。この本については、また改めて書きたいと思う。

 

 

本を読むことは好きだけれど、ひたすら自己流に読んでいるだけで、今まで読書会のようなものに参加したことがなかった。実は今回も自分から興味を持って申し込んだのではなく、去年の田原市の図書館の企画「歌う図書館」と同じように、何かスタンディングの活動のヒントになるものが得られるかもしれないから、参加してはどうかと”言い出しっぺ”に誘われたのだ。

 

ナカムラさんの話だけでなく、参加者の中にもユニークな人がいて刺激を受けたが、今日一番印象に残った話は、ナカムラさんが意外に人気が高い企画として紹介してくれた「暗闇読書会」だ。ろうそく1本分くらいの灯りが良いとのことで、暗さは人の心を開放的にし、明るかったら出ないであろう話が引き出されると言う。示唆に富むアイデアだと思った。

 

去年の田原市図書館に比べると、建物自体の魅力は言うに及ばないが、企画力にしても宣伝力にしても、残念ながらまだまだ一歩も二歩も遅れていると感じた。全体的にお役人臭さが強い。平成33年度の開館を目指して現在準備中の「まちなか図書館」ができれば、図書館に対する市民の関心も高まり、スタッフも互いに切磋琢磨して良質な図書館になっていくだろうか。期待したいところだけれど。

 

 

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