よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

死よりむごい運命 『ルール』古処誠二著

舞台は第二次大戦下のフィリピン。左耳を半分失った中尉鳴神と、背中に雲龍の彫物を入れた軍曹姫山、平和な世であれば寺を継いで美しい僧侶になっていたであろう一等兵八木沢。この3人の日本兵を中心に、戦争末期、最も苛酷だった時期の苛酷だった場所に置かれた日本軍の闘いを、これ以上ないというくらい苛烈な描写で描き出している。

 

 

敵に勝つには飢餓から解放されなければならない。

飢餓から解放されたければ敵に勝たなければならない。

 

こんな矛盾に満ちた言葉で物語は始まる。この時期、もはや敵は米軍ではなく飢餓である。そのすさまじい飢餓地獄の描写は書くことが躊躇われるほどである。それでも目を背けずに夢中になって読めたのは、3人の中心人物の魅力と作者の筆力だろう。

 

この作品を読んで、戦争体験者が当時のことを語りたがらないのも当然だと痛切に感じた。けれどもどんなことがあったにしろ、それはその人個人の罪ではない。極限状態に置かれれば、誰でもまず自分の生を確保しようとするのは当然だ。なのに、そのことに苦しめられ、生き残ったことに罪深さを感じて戦後を生きなければならなかった帰還兵の方たちは、国に対して戦死すること以上の犠牲を払ったとも言える。

 

錯乱した日本兵に撃ち落された米軍機のパイロットオースティンが、一対一なら恐ろしく強靱なのに、集団での攻撃となると呆れるほどお粗末な日本人に対して抱いた思いがこう表現されている。

 

誰かリーダーがいれば、そのリーダーにとことん歩調を合わせる。だからリーダーがバカだと集団ごとバカになる。夜間、敵の機銃が待ち構えている陣地に丸裸で突撃せよと言われると、そのまま実行してしまう。自殺と同じだという認識を抱かないのだろうかと不思議に思うが、そんな戦闘が実際に繰り返されている現実の前に疑問など無意味だった。常軌を逸した皇帝崇拝で思考力を奪われてしまったからなのだろうが、彼らがそれに気づくにはあと百年くらいの時間が必要かもしれない。

 

もちろんこれはオースティンの日本人観として著者の思考が書かれている訳ではあるけれど、「常軌を逸した皇帝崇拝」という部分を除けば、見事に今も大半の日本人はこの通りではないだろうか。 そしてこの「皇帝崇拝」に置き換わるものが、一部の人たちに根強くある、根拠のない「日本は特別優れた美しい国」という思い込みかも知れないという気がする。今の世の中を見ていると、集団としての日本人が目覚めるのは百年たっても怪しいとさえ思う。

 

1970年生まれの若い著者が、これほどしっかりした戦争ものを生み出してくれることに驚き(2002年の出版なので執筆時は30歳前後か)、そして感謝する。戦争とは何か。その一つの答えがここにある。

 

贅沢な日々を送り、国会の立派な机の上で、観念的な集団的自衛権だの安全保障論議を繰り返しているお偉い方々に、まずは議論の前にこの本を読んでもらいたい。寺にあった地獄絵図などかわいいものにさえ思えたと、寺の息子である八木沢に言わしめた、この現実の生き地獄を生き抜いてきた方々が、まだ現在のこの日本に生きているのだ。国家の、そして軍上層部の一部の人間の利害のために、どれほど国民が辛酸を舐める羽目になったかを直視してほしい。まあ、あの方々はこの作品を読んでもそういうふうに感じないかも知れないが・・・。

 

本書のカバー装丁が銀に近い金一色のお洒落なデザインで、とりわけ悲惨な戦争ものなのになぜなのだろうと不思議だったのだけれど、読み終わって理解した。

 

日本のものは、夜間敵を襲撃するために銃剣さえも光らないよう黒錆染、飛行機もなるべく目立たないように、肩をすぼめているようにすら見える暗緑色。まるで常に日の当たらないところに隠れていなければならない、自分たちの象徴のようだと姫山軍曹は思う。

 

それに対して、米軍機は日中機体をキラキラ光らせて飛んで来る。銃弾もろくにない自分たちに対し、敵は雨あられと撃って来る。姫山の目にはそうした米軍の存在は眩しいものとして映っただろう。

 

そして、もうひとつ金色のもの。軍資金の金貨だ。これもこの作品の重要な要素の一つ。末端の者はどこまでも苦しみ、上層部はどこまでもうまい汁を吸う。このカバーの金色は、この金貨の暗喩でもあるのではないかと思った。

 

 

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小学校1年生。桃太郎を演じました。女の子なのに・・・。

桃太郎ももう少し平和的な解決策はなかったんでしょうかね。力にモノを言わす前にやっぱり話し合わなくちゃ!