よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

『苦役列車』西村賢太著

「曩時(のうじ)北町貫多の一日は」と始まる。いきなりつまずいてしまった。「曩時」が分からない。あいにくパソコンは電源を入れていなかったので、手近な新明解国語辞典を引いた。ない。ひょっとして「曩時北、町貫多」っていうすごい変わった名前?と思うが、ルビのふり方から見てもおかしいし、先を読めば「貫多は」と出てきているのだから絶対違う。別の部屋まで広辞苑や日本語大辞典を取りに行くのも面倒で、居間にあるもう一冊の辞書である漢和辞典を引く。曩の字の「曩日」の項に、辛うじて「=曩時。さきごろ」とあった。

読み進むとこれに似たような語が出てくる出てくる。後架、閑所、気嵩、黽勉などなど。前後や文字から想像できるものもあるが、辞書にもなく、分からずじまいの言葉もいくつかあった。知識として知ってはいても、今時の若者の会話文の中に使うのはどうなのだろうと思う語も少なくない。「コネクレージー」という語に至っては、ネットで検索してもこの作品に関するものしかヒットせず、しかもそのどの記事でも意味に触れていないため分からない。新明解で「〇〇の老人語(新解さん!)」ということで載っていた言葉もあったが、私の新解さんは二十年以上前のものなので新しい版にはそれらの言葉もないかもしれない。

敬愛する作家の文体や語彙に似せているのかもしれないが、多くの古めかしい言い回しと同時に「インターバルを置きたくなったときは」とか、「アットホームな気持ち」「暴行レベル」「ブルった」「大いにエンジョイしている」「袋の中のものをリリースしていた」など、不必要と思われるところでカタカナ語や今日的と感じられる表現が使用され、私には終始違和感が付きまとった。

また、主人公の一人称が「ぼく」なのだが、中卒で日払いの人足仕事に従事し荒んだ暮らしをしている主人公の設定や、会話文中の「てめえ」「おめえ」「しかしよ」「しやがったくせに」などの乱暴な言葉遣いと不釣り合いな気がする。「ぼく」でなければいけない理由は私には分からない。乱暴だったり妙に漢語表現を多用するいっぽうで、「お蕎麦」「お刺身」「お腹の中で呟きつつ」と突然おんな言葉っぽい表現も出てくる。芥川賞の選評で山田詠美氏はこれらの点を「キュート」と言っているのだから、人の感覚はそれぞれだとつくづく思う。

ほかにも一行中に「はな」という言葉が二度も使われていたり、人物の表情の描写で、「穏やかに崩しながら」に続いて「破顔しながら」とあったりして、著者は果たして推敲を行ったのだろうかと感じさせる。恋人同士が約束して会うこと(いわゆるデート)に「邂逅」という語を使ったりしているのは明らかに間違いだろう。

ストーリーについてはもう救いようがない。生い立ちは恵まれているとは言えないが、それでも自分次第でいくらでも前向きな生き方も可能なのに、運命に甘え母親に甘え周囲に甘え、底辺の荒んだ生活を続ける主人公を私はとうてい好きになれないし、作者がこの作品で何を言いたかったのかも分からない。『苦役列車』という題名からもっと苛酷な運命に翻弄され苦しむ物語かと思っていた。なぜ二作品にしてまで、この年この作品に芥川賞を与えなければいけなかったのだろう。朝吹さんがあまりにも文学界のエリートだったので、世間からの批判を避けるためにあえて対照的な作品をもう一遍入れたのかと、深読みしたくなってしまう。

私にはとことん合わない作品だったと言うしかない。