フェルディナンド・フォン・シーラッハの『テロ』を読んで考える
昨年7月出版の作品。刑事事件の弁護士として活躍するかたわら、『犯罪』『罪悪』『禁忌』などの小説を発表してきた著者の初の戯曲作品だ。
刊行直後から本国ドイツでは本書をめぐって大激論が巻き起こり、ドイツ語圏の30か所以上の劇場で上演され、日本でも橋爪功さんによる朗読劇として上演されているそうなので、ご存知の方も多いかもしれない。
以下、出版社のホームページの紹介文より。
2013年7月26日、ドイツ上空で旅客機がハイジャックされた。テロリストがサッカースタジアムに旅客機を墜落させ、7万人の観客を殺害しようと目論んだのだ。しかし緊急発進した空軍少佐が独断で旅客機を撃墜する。乗客164人を殺して7万人を救った彼は英雄か? 犯罪者か? 結論は一般人が審議に参加する参審裁判所に委ねられた・・・。
こうして裁判長のことばで裁判が始まり、読者や観客はまるで自分が参審員(日本の裁判員)になったかのような気持ちで、審理の進行と向き合うことになる。
被告人ラース・コッホの上司が証人として出廷し、テロリストにハイジャックされた航空機に対し、飛行進路の妨害と警告射撃を命じたけれども、警告に応じないからと言って撃墜する命令は出していないことを証言する。
続いて検察官の「スタジアムの観客の緊急避難を指示したか」という問いに対し、証人は始め明言を避けるが、検察官の鋭い追及に、誰も観客の避難は指示しなかったことを認める。
論理的には観客全員が避難するに十分な時間があったとされているので、私はこの点は判決に影響する重大な点だと感じたけれど、実際には大観衆にこの危機的状況を知らせたら大パニックになってしまい、計算上の時間よりはるかにかかってしまうかも知れないし、また出口に殺到する人で大変な事故も起きるかもしれない。
ところが、意外なことにこの点はあまり問題視されず、最後の評決の部分でも言及がない。論点はあくまでも7万人に対する164人の命という、人命を数ではかって良いのかという点に絞られている。
ハイジャック機に夫が乗っていたため被告人によって殺される結果になった看護師も証人として出廷する。突然夫を奪われ、妻と7歳の娘のもとに遺品として返却されたものは、左の靴だけという理不尽さに、無辜の乗客の命を奪った判断の冷酷さが象徴される。
さて、はたして自分が参審員であったなら、有罪に票を投じるか、無罪に投じるのか?
本書では、両方の場合を用意している。ドイツ語圏での上演では、第二幕の最終弁論のあと、観客の評決によってそのあとを有罪で演じるか無罪で演じるか決めるというスタイルであったらしい。
まずはスタジアムの観客を避難させ、ハイジャック機の乗員の対応などを見ながら、上司の指示を待つべきであったと思うので、早い段階で勝手に決断し164人の命を犠牲にした被告人の判断は間違っていたと私は思う。けれども、有罪だというのも少々気の毒な気がするので、なにか特別な恩赦のような措置は取れないだろうか・・・と中間的な所を探ってしまう。
本編も非常に考えさせられるものだったが、巻末に収められた、フランスの雑誌シャルリー・エブドがM100サンスーシ・メディア賞を受賞した際の、授賞式における著者の記念スピーチ「是非ともつづけよう」という文章が素晴らしかった。
わたしたちの民主主義を破壊するのはテロリストではないということです。彼らにそのようなことはできません。(略)民主主義を損なうことができるのは、わたしたち民主主義者だけなのです。そしていとも容易く損なわれます。煽動家は勢いづき、政治家はより厳しい法律を要求し、情報機関はこれまで以上に力をつけます。ヨーロッパがイスラーム化する恐れがある、とさまざまな党が懸念し、パリでのテロをその「証左」だと思うでしょう。要注意人物の情報が開示請求され、インターネットの監視が強化されます。それこそがテロリズムがもたらすものなのです。その影響は間接的で、だからこそ危険なのです。
そして怒りに駆られた行動を無暗にしても役立たない。思慮深さ、憲法、法治国家であること、それだけが長い目で見てわたしたちを守ることができるとし、ノルウェイで77人を殺害したブレイビクの事件を上げ、それに対してストルテンベルグ首相が追悼式典で行った演説を紹介している。
「わたしたちはわたしたちの価値を放棄することはありません。今回の事件に対するわたしたちの答えは、もっと民主主義を、もっと公明正大さを、もっと人間性を、ということです」
首相は、なにがあっても民主主義のほうが強いことを世界に示そうと訴えたとし、その言葉に著者は深く感動したと言う。以前ニュースで、この凶悪犯に対しても特別扱いすることなく、快適すぎるほどの独房生活をさせている様子を目にして、ノルウェーの文化度の高さに驚いたのだが、この首相の言葉に触れて、私もまた、非常に感動した。
わたしたちが生きている世界は完璧ではありません。これまでの世紀よりもましなだけです。そしてこの世界には、〈シャルリー・エブド〉が必要です。・・・あなたの雑誌は軽佻浮薄で、激烈で、ふざけるなと言いたいくらいです。往々にして許容範囲を超えているわけです。しかしそうすることで、わたしたちの自由を表現し、具現化してもいるのです。
あのテロ事件があった時、シャルリー・エブドの表現が度を越えているのでは?と思っていたが、この部分を読んでとても納得がいった。
今、この国に、著者が引いているベンジャミン・フランクリンの言葉を捧げたい。
「安全を得るために自由を放棄する者は、結局どちらも得られない」。