よんばば つれづれ

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亡くなった人を忘れない

今日8月14日は、3歳上の次兄が亡くなった日だ。13歳だった。当時は出席日数が足りないと進級や卒業ができなかったため、兄は2度目の6年生だった。中学生になることも、初恋を経験することも(たぶん)なく、神様に召されてしまった。白血病だった。53年も昔のことゆえ、この病名は一般人にはまるでなじみがなかった。今も難病に変わりはないが、その頃の恐ろしさは今とは比較にならないほどのものだった。

学校の音楽の先生が「○○くん、なんだかこの頃顔色が良くないようだけど・・・」と気遣ってくださってかかりつけの医院で受診した。名古屋の大学病院へ行って精密検査をと言われ、その結果判明した恐ろしい病気。でも本人は毎日元気に野球の部活を続けていたし、医者に聞かれた広島の原爆とも全く関係はなかったし、私たち家族は「何かの間違いじゃないか」と半信半疑だった。

それでも12歳小学6年生の兄は家族と離れ、名古屋の名大附属病院に入院することになった。小学3年生だった私はあまり細かなことは覚えていないのだけれど、たぶん次兄は粛々と運命を受け入れ、素直に大人の言うことに従ったのだと思う。泣いたりわめいたり、文句を言っていた記憶はまるでない。そもそもそれ以前から、とても優しくて穏やかで親孝行で、学校でも誰にでも親切で、4年生から選ばれてずっと務めていた児童会の書記の仕事も責任感強くきっちり果たす、文句のつけようのないような子だったのだ。


嘘だ、悪い夢だ、間違いだと思っていたのに、お盆のさなかに兄は逝ってしまった。冷たくなった兄をこの目で見たのに、煙となって昇って行くのにも立ち会ったのに、それでも信じられず、当分、今にも玄関を開けて「ただいま!」と兄が帰ってくるのではないかという気がしていた。


たった13年しか生きられなかった兄が可哀想で、「こんな少年が生きていたのだ」ということを多くの人に知ってほしくて、兄のことを本に書きたいと思った。けれども10歳の私は、その年の話し方大会(弁論大会を小学校ではこう呼んでいた。私はなぜか小1から卒業まで6年間出場させられ続けた。おまけに中学校でもなぜか3年間連続。度々学校代表として上の大会まで出たので、小中学校では年中弁論ばかりしていた。どういう星のもとに?)で、次兄の思い出をテーマに話すのが精いっぱいだった。


そうして時間がたつとともに悼みや悲しみは徐々に薄れ、自分の人生も忙しくなり、いつしか何十年も過ぎてしまった。

40代のときだっただろうか。初めて中学校の同窓会に出席した時に、顔に見覚えのある男の子(40過ぎてるというのになぜかこう言ってしまう)が話しかけてきて、「お兄さん覚えてるよ。野球うまかったよね。小学校のとき教えてもらった・・・」と言ったのだ。嬉しかった。周りで何人かがウン、ウンと頷いている。亡くなって何十年もたったのに、家族以外の人が憶えていてくれたよ!と天国の次兄に叫びたい気持ちだった。



原爆の日があり、日航の墜落の日があり、お盆があり、終戦の日があり、日本では8月は亡くなった人を偲ぶ月だ。亡くなった方への一番の供養は忘れないこと、だと思う。戦後長い年月が経って、戦争体験者が少なくなりつつある今、戦争や戦争で亡くなった方々が忘れられそうで危機感を抱く人々がいる。直接の経験がないことはどうしようもない弱みだけれど、それでもなんとか語り伝え、忘れない努力をする義務が私たちにはある。メディアも大きな責任を負っているし、私たち一人一人も身近な話を語り継いでいこう。

もちろん8月以外にもそれぞれ、いろいろな方を偲ぶ日がある。何かしらゆかりのあった方は、折に触れて思い出し偲ぶようにしたいと思う。故人を知る人が集まって、思い出話に花を咲かせたら、きっと喜んでくれることと思う。

お盆のこの時期、そんな思い出話に咲く花が、日本中のあちこちでいっぱい咲いているよう願う。そういうことから遠ざかると、平気で万引きしたり、貧しい国の女性や子供を食い物にするような人間が生まれてきてしまうのではないだろうか。戦後の貧しいなか、必死で今の日本の土台を築いてくれた先人たちに顔向けできないような事件が続く。私たちはどこで何を間違ってしまったのか・・・。