よんばば つれづれ

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生きること、死ぬこと・・・『リメンバー・ミー』を観て

何十年ぶりかでディズニー映画を見た。6月に孫の吹奏楽部の演奏会で信州に行った折り、嫁が貸してくれたDVDの『リメンバー・ミー』だ。

 

彼女は私がディズニー作品にあまり興味がないのを知っていて、自分もまるで見るつもりはなかったのだが、息子(私から言えば孫)の吹奏楽部がこの映画の劇場封切り前のアトラクションで演奏するので、それを見にいってやむを得ず見たら、これが思いがけなくとても良かったのでDVDも購入したのだそうだ。嫁と私は本やドラマなどの好みが結構合うので、それならばと借りてきた。

 

子どものころに見たディズニーのアニメーション作品、『白雪姫』や『シンデレラ姫』などの常にユラユラしているような独特の動きになじめなくて、ずっとディズニー作品に偏見を持っていた。あのつるりとしてクリアすぎる絵も苦手だ。好きな方には申し訳ないが、パディントンもプーさんも、ディズニーの手にかかると、すっかり元の陰影がなくなってしまって味わいが消失してしまったように思う。

 

でも、確かにこの『リメンバー・ミー』は大変良い物語だった。

 

舞台はメキシコ。主人公は家族で靴屋をしている家の少年ミゲルだ。ギターや歌うことが大好きなのだけれど、ひいひいおばあちゃんの夫は、ある日音楽で一旗揚げると家を出てそれっきりになってしまい、残された彼女は傷つき、家中から音楽を締め出し、靴屋となって身を立てる。そのひいひいおばあちゃんの娘のココ、ミゲルのひいおばあちゃんは、高齢で今や恍惚の日々に埋没しそうになっている。

 

ミゲルはメキシコの伝説的な歌手であり俳優であるデラクルスに憧れ、なんとか「死者の日(日本のお盆のような感じ)」の音楽イベントに出場し、音楽への道を開きたいと願うが、音楽を禁じる家族の激しい妨害にあってしまう。お手製のギターは家族に壊され、なんとかデラクルスの聖廟に飾られているギターを借りようとしたことから彼は死者の世界にさまよいこんでしまう。そこでまたミゲルは、さまざまな困難と闘うことになる・・・。

 

というお話なのだけれど、死者の世界では、自分のことを偲んで祭壇に写真を飾ってくれる家族がいる者だけが、年に一度「死者の日」に家族のもとに帰ることが許される。誰も思い出してくれる人がいなくなると、死者の世界からも消えなければならない。二度目の死であり、完全な消滅だ。

 

家族を捨てて行方知れずとなってしまったひいひいおじいちゃんの設定や、伝説的な存在のデラクルスの実体など、物語もよくできているし、ミゲルになついている野良犬ダンテが笑わせながらなかなかいい働きをして、魅力的な存在感を発揮している。

 

少年の夢を邪魔し、きずなを押し付けてくる感じの家族に反発を覚えるが、その家族の深い愛を後半で見せてくれ、お決まりの展開ではあるが、しみじみする。

 

そして何より、「自分のことを覚えていてくれる人がいる間は、生者の世界に帰ることができる」というテーマである。お盆が近づいたこともあって、少し前からちょうどこのことを考えていた。

 

お盆は、3歳上の次兄の命日でもある。13歳で逝った兄を知る者は、もう私と姉しかいない。20年くらい前、中学校の同窓会に出席した折り、野球部だった同級生の男の子たちが「覚えてるよ。優しい先輩で、野球いっぱい教えてもらった!」と言ってくれたが、私がいて、たまたま兄の話になったから思い出してくれたのであって、そうでなければ思い出されることもないだろう。

 

直接知っていて、日常的に偲ぶことができるのは、もう姉と私だけだ。姉や私がいなくなれば、完全に次兄の存在はこの世から消えてしまう。若くして亡くなるということは、こういう悲しみもあるのだと改めて思う。子がいたり孫がいたりすれば、それだけ覚えていてもらえる時間は長くなるのだけれど。

 

マリー・ローランサンの死に「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」という一節があるが、こういうことなんだなと思う。

 

次兄が亡くなった時、こういう人がいたんです、このように生きたんですと、世の中の人に知ってもらいたくて、本を書きたいと思った。けれども私にはその力がなく(弁論大会のテーマにして、学校中の人には聞いてもらったが)、果たすことはできなかった。

 

でも、自分が大分あちら側のことを考える年齢になった今、長く覚えていてほしいかとか、自分の存在を広く知ってほしいかとか考えた時、そうでもないなという気がする。誰も寂しがってくれる人がいなかったり、いなくなった途端に忘れられたりするのではさすがに寂しい(これも生きている私が思うことで、死んでしまえば「無」だと思うが)けれど、子や孫や、もし私より後に残っている友がいく人かでもいれば、亡くなったあと、しばし偲んでくれれば本望だ。

 

結局、死んだあとどれだけ長く覚えていてもらえるかということよりも、自分の死を悲しんでくれる人がいると、信じられるような生き方をすることが大切なのだろう。

 

 

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いつも偲んでるよ、あなたたちのこと・・・。