よんばば つれづれ

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ささやかな喜び

選挙に気を取られていて、うっかり一番最後の母の月命日さえ過ぎてしまっていた。気付いたけれど、今度は毎日雨。で、やっと晴れた今日墓参に出かけた。

 

霊園に隣り合った桜の名所の公園は、台風の風に飛ばされた桜の小枝や色づき始めた葉っぱが散り敷いていた。ときによっては、霊園内の松のかなり太い枝が折れて落ちていたり、古くなった木の幹が傷められてしまっていることもあるが、今回は小枝ばかりだったようだ。

 

ほんの一、二回前に来たときは汗をふきふき歩いたのに、もうすっかり歩くのが心地よい季節になった。時の移ろいのなんと早いこと。

 

帰り道で、以前寄った雑貨屋さんでカフェを併設しているお店でお昼にする予定だった。霊園からの坂道を下っていくと、ちょうどその店の人が買い物袋を提げて、入り口のドアの鍵を開けているのが見えた。良かったと思い急いで駆け寄ると、閉まりかかるドアに「都合により本日は1時半から営業します」の表示があった。そのとき時刻は12時少し前。ああ、またしても振られてしまった。優雅なこのお店、きっと趣味でやっているのであろう。

 

しかたなく、近くの大型店の中のお店で昼食にし、そのあとテナントのアクセサリーショップをのぞいた。なぜか60を過ぎてから、揺れるイアリングに惹かれるようになった。お気に入りのものをいくつか落としてしまったし・・・と見ていたら、気に入るものがあったので求めた。スッキリタイプか可愛らしいものか決め難かったので、プチプライスだしと思い、両方買ってしまった。

 

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可愛いタイプ

 

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スッキリタイプ

 

ささやかな喜び。

無為は空であるという示唆

私のつまらないボヤキに、いろいろありがたい言葉をいただいた。単純なお天気屋の私は、ちょっとした要因や、あるいは何もなくても、周期的に落ち込んだりする。

 

今回も、考えてみれば恵まれているのだ。自分が深刻な病気であっても、あるいは家族の誰かが難しい病気であっても、虚しいなどとは言っていられない。息子たちが曲がりなりにもちゃんと暮らしていて、夫婦仲にも親子関係にも問題がないから、母としても祖母としてもまるでしゃしゃり出る幕はないけれど、それは幸せなことでもある。第一食べていくことに不安があったら、ぼやいている暇もないはずで・・・。

 

単身者世帯が増えている現代。今後ベーシックインカムなどで生活の基盤が保証されると、こういう考え方によっては少し恵まれた悩みが問題になってくるかもしれない。幸か不幸か自民が大勝してまた当分安倍政権が続くので、シャンパンタワーの下層にまで届くような税の再分配がなされる時代は当分来ないだろうけれど。

 

inuwanさん(id:inuwan33)のくださったコメントが、示唆に富んでいる気がした。

無為はネガティブな意味で使われることが多いですが、>自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと<という意味でもあるのです。
yonnbabaさんが無為に過ごしたと思っているのも、裏を返せばそれが自然な事だったのかもしれませんね。
その日はyonnbabaさんの心が空になっていたのでしょう。
空は大事なことで、器も空があって水をためられるのだし、部屋だって空があるから生活ができるのでしょう。
なんでもかんでも詰まっていると使い物になりませんよね。
何もしないで生きることに案外解があるのかもしれません。

 

無為は空でもあって、器も空だからこそ水をためられる。なんと深い境地だろうと思う。やはり富の再分配が理想的になされ、全ての人が労働の強制から解放されるような社会は、一人ひとりの人間の意識がかなりの高みに到達していないと、せっかく手にした自由の使い方を間違いかねない。

 

はたして人間は、そのような精神的高みに行きつけるのか。それとも、いつまでたっても私利私欲に振り回され、あくせくと憎みあったり殺しあったりし続ける生き物なのだろうか。

 

まずは私自身、無為を空と受け止め、より多くの水をためられる器になりたい。

 

 

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ガラスの天井・鉄の天井の違和感と無為な一日

言わずと知れた、小池百合子さんがパリで発した言葉。聞いたとたんに違和感を感じた。現在では、女性に限らずマイノリティ全般を対象にするらしいが、もともとこの言葉は、能力があるのに女性だということが障害になって相応の地位に上っていけない状況を表す表現だった。

 

けれども、小池さんとか、ついでに言わせていただけば、今回の選挙で最も早く当確の出た人の一人であろう稲田さんなどは、そもそもガラスの天井というものが存在したのだろうかと思う。むしろ、女性だからこそ(そしてさらにハラスメントなどの誹りを恐れず言えば、見た目もそこそこだから)、あのキャリアであの地位まで行けたのではないかと思う。

 

女性であることすら自身を演出する武器にして都知事になり、風を起こして都議選に勝利した小池さんに対して、ガラスの天井を破った!と感じた人は少ないのではないだろうか。

 

まして今度の衆院選で「改めて鉄の天井の存在を知った」だなんぞと、責任転嫁も甚だしい。自身のおごった気持ちから出た失言の数々が、せっかく、周囲に集まった政治家たちや、応援する人々にかけていた催眠効果を霧消させてしまったにすぎない。

 

また一方では、その女王様にひれ伏して威光のおこぼれにあずかろうとした人たちが、あっという間に舞台が暗転して端役となるや、女王様の独裁のせいだと恨み言を言っている。これもまた実に情けない。こういう時にこそ言うのではないだろうか、「自己責任」と。

 

 

さて、今週は珍しく週半ばまで何の予定も入っていない。昨日は思い切り落胆に浸り、今日から心機一転、のつもりではいたのだけれど、何の予定もなくパソコンやら読書やらで過ごしていると、食事どきに台所に立っては思う。何もしていないのになぜおなかがすく?私が生きていることに何の意味がある?

 

たいして役に立てていない民生委員だけれど、私にとっては現在これがありがたい自分存在の意味になっている。いまどきなかなか引き受け手はいないから、私がいないとたぶんちょっと困るだろう。頑張らねば、と思える。

 

だんだん、こうして存在の意味を考える時間が増えていくのだろうか。人のために働くことができなくなったら、どこに意味を見出せばよいのかと、ちょっと心配になる。その点、大変ではあったけれど、子育て中は幸せだった。幼い子供は「お母さん、命!」みたいな熱い目で見つめてくれたものだ。

 

私の幸せ、生きる意味は、必要とされること、らしい。死ぬまで必要とされていることなど、できるだろうか・・・。

 

 

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猫のように、生きられたら!

無理だ。猫は存在するだけで愛らしいもの。ヒトは困ったものデス。

 

 

雨に阻まれた最後の活動

10月の第三週末は、恒例の豊橋祭りだ。今日の土曜日、スタンディングの仲間は、人でにぎわう豊橋公園に繰り出し、「選挙に行こう!アピール活動」をする予定だった。でも残念ながら朝から無情の雨。「今日の活動は中止にします」とのメールが配信され、投票日前最後の活動は雨に阻まれて流れた。

 

今日の活動が実施されても、私は老人会の用事があって参加することはできなかったので、昨日の夕方の駅前スタンディングに最後の活動という思いで立った。おととしの7月から2年あまり続けてきたサイレント・スタンディング活動。こんなに長い戦いになるとは夢にも思わなかった。いろいろな人に出会い、良い人間関係が生まれて、退職後の生活に思わぬ広がりを与えてくれた。これからも仲間たちと考えながら進んでいきたい。

 

明日の投開票日のあと、結果がどう出たとしても、スタンディングという活動はいったん終わりにしようかと考えたりしている。これからも毎日続ける人もいるだろうし、金曜日だけは続けるという人もいるかもしれないが、私はとりあえず一度終わりにしようと思う。もちろん、民主主義を育てることに今後も心を砕いていくという決意に変わりはないけれども。

 

投票日に台風がぶつかって、離島などでは投票日を一日前倒ししたところもあり、期日前投票も多くの人が駆け込んで、1時間待ちなどというところもあるとニュースで伝えている。けれども、おそらく最終的な投票率はかなり悪い数字になるだろう。

 

大義のない解散、争点のはっきりしない選挙戦、私利私欲丸出しで、直前まで離合集散を繰り返した政治家たちへの怨嗟や諦念で、無党派の人にとっては、悪天候をついてまで投票に出かける気持ちは持ちにくいことだろう(だから行かなくていいということにはならないが)。

 

あまり明るい展望は持てない状況だけれど、今回の選挙戦の中で生まれた「ボトムアップの政治」を掲げた立憲民主党だけは闇の中の一条の光だ(「希望」という言葉に手あかがついてしまったので面倒だ)。どうやら、安保法に反対して、2年前の国会周辺に集まった多くの国民が、その熱気のただなかに立った政治家を変えたらしい。

 

この2、3年で、やっと日本にも真の民主主義が生まれたのではないかと思う。これは安倍暴走政権の一番の成果かもしれない。まだまだ保育器に入っている程度の心もとない状態なので、これからも国民一人ひとりの不断の努力で、しっかり見守り育てていく必要がある。同時に民主主義成立の必須条件である司法や報道も、権力に寄生するひ弱なものでなく、きちんと自立したものでなければならない。

明日は最高裁判所裁判官の国民審査もある。

 

 

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映画『僕のワンダフルライフ』と攻めるTBS

猫の次は犬、という訳ではないけれど、今度は三度生まれ変わる犬が主人公の映画『僕のワンダフルライフ』を観た。『ボブ・・・』の時の予告編で目にしてはいたが、特に見ようとは思わなかった。ところが、例によってSPYBOYさんの素敵なレビューに接し、しかもラッセ・ハルストレム監督の作品と知って、がぜん観たくなった。

『選挙前のニュースあれこれ』と映画『僕のワンダフル・ライフ』 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)

 

 

ラッセ・ハルストレム監督は『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』で知った。あまり恵まれているとは言えない境遇に置かれたイングマル少年が、人工衛星に乗せられ宇宙を旅することになったライカ犬とわが身を引き比べながら、つらいことを乗り越えていく物語だった。

 

スター・ウォーズやインディー・ジョーンズなどの派手なハリウッド映画全盛だった80年代の、スウェーデン製の地味な映画だ。けれどもこの作品は高く評価され、ハルストレム監督はこのあと世界を舞台に活躍するようになった。

 

ハルストレム監督作品は、『ギルバート・グレイプ』『サイダーハウス・ルール』『ショコラ』など、つらい境遇に置かれた主人公の物語が多い。しかも幸運な展開や大逆転があるわけでもなく、けっこう試練の多い日々がたんたんと描かれることが多い。それでも、見終わったときにじんわりと「思うようにならない人生だけど、生きるって、まんざらじゃないな」と思わせてくれる。

 

今回の『僕の・・・』は犬が主人公。「ワンダフルライフ」は、この犬にとってのワンダフルライフなのだ。でも、ハルストレム監督作品の主人公だもの、捨て犬だし、保護施設からもらい受けてくれた里親には、帰り道で早速暑い車内に置き去りにされ、あやうく死にそうな目に合わされるという不幸ぶりだ。

 

その危機から救ってくれたのは、少年イーサンとママだった。イーサンと幸せな日々を過ごし、二人(一人と一匹)は固いきずなで結ばれる。

 

青年になったイーサンを襲う不幸。やがて人間よりはるかに寿命の短い犬には、定めの別れの日が来る。でも、犬は挫折したイーサンが心配でたまらない。イーサンを思うあまり、彼は三度も生まれ変わる・・・。

 

途中ちょっと心配なシーンもあるが、ちゃんと犬に危険はないように撮影されているそうだ。そうして、たぶん・・・と思う経過で落ち着くところに落ち着くのだけれど、かわいらしくけなげな犬を楽しみ、心を洗う涙にくれて、大満足の1時間40分だった。

 

 

今日はこれだけで充分なのだけれど、このところ果敢に攻めているTBSに敬意を表して、ぜひとも触れておきたい。昨夜の『池上さんに教えてもらう前と後』という番組だ。

 

池上彰さんが選んだ6枚の写真から見えてくるタブーということで、北朝鮮金正恩一族のコンプレックス、中国の驚くほどのキャッシュレス化などの紹介のほか、「富士山の上空はどこのものか?」と問いかけ、横田制空権の範囲内なのでアメリカのものだと紹介した。そのため大阪や福岡に向けて羽田を飛び立った飛行機は、あえて東方向に飛んだあとターンして、その制空権を避けて飛ばねばならないことを説明した。

 

このほか、北の挑発に対しミサイル迎撃システムPAC3を広島に備えたため。広島は再び核の危険にさらされていることや、過去に使用された迎撃システムの驚くほどの命中率の低さや、命中した場合の破片の危険などに言及した。

 

オーストラリアの潜水艦の写真は、一部分をアップすると「MITSUBISHI」の文字が見え、日本製であることがわかる。池上さんは、日本政府はいまや武器輸出を「防衛装備品の移転」と言い換えて輸出に力を入れ、隠れた軍需大国だと紹介した。

 

このことについての街頭インタビュー風景に「えっ三菱が武器輸出?株買おうかな」と言う男性がいて、横にくっついていた女性も「上がるよね」。皆が皆ではないだろうが、いまの若い世代はこういう感覚かといささか衝撃を受けた。

 

このほか、国連の議場で、核兵器禁止条約に反対した核保有5大国の席に、被爆国日本の人々から折り鶴が置かれたニュースに触れ、アメリカの核の傘に守ってもらっていると思っている日本が参加しなかったことも紹介し、これでいいのかと疑問を提示した。

 

先日の林修先生の歴史教科書の番組といい、昨日の番組といい、

yonnbaba.hatenablog.com

 

この時期にこのような番組を放送するTBS(制作はどちらもMBS)には、大いに敬意を表したいと思う。どちらもバラエティーあるいはとっつきやすい娯楽情報番組として作られているところに非常に価値があると思う。政治は自分と関係ないと思っている人たちが、こういう番組を見て、政府というものは、知らないところでこんな恐ろしいことをするものなのか、と気づいてくれるといいなあと思う。

 

 

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今日も雨天決行でスーパー前スタンディング

雨天決行ということで招集がかかったが、幸い実施時間の4時半には雨は上がっていた。

 

今日のアピール場所は、市の中心部にある地元の老舗スーパーマーケット本店前。今までにも何回かここで行っていて、チラシの受け取り率の良さは経験済みだ。今日も、少なく見積もっても3人に1人は受け取ってくれた。駅前だと10人に1人あるかないかで、大変な違いだ。

 

しかも、私たちが今の民主主義に反する政治の在り方に危機感を感じて集まった、ごく普通の市民だと説明すると、「こういう活動をしてくださっている方たちがいらしたんですね。ありがとうございます」とねぎらってくださる方がいた。「枝野さんが好きなんだけど、この選挙区は立憲民主から立っていないので困っている」と仰ってしばらく話し込んでいかれた。

 

今日集まった仲間は8人。30分ちょっとで、チラシ300部以上は配ったのではないだろうか。「ぜひ投票に行ってください」とお願いすると、「もう済ませたよ」と仰る方もチラホラいらした。

 

こういう活動をしていると、よく言われる言葉が「共産党?」というものだ。つまりは、共産党くらいしかこういう活動をしてこなかったということだろう。ちゃんと読んでくれれば、チラシに団体名も代表者名も入れているのだが、私は途中から「市民グループですが・・・」と枕詞をつけて配った。政党とか労働組合とか宗教とかに関係する特殊な人たちではなく、「普通の市民が、こういう活動をする」のだということをしっかり印象付けたい。

 

このあと今日は用事があって帰る人が多く、Iさんと私の2人だけだったが、Iさんが少しだけでも駅前でスタンディングして帰ろうというので、2人して往路車に乗せてもらった”言い出しっぺ”とスーパー前で別れ、駅前スタンディングを30分して、帰りは電車で帰ってきた。

 

私たちの活動に感謝してくださった奥様が「1票入れたところで、どうにもならないと思っちゃダメなんですよね」と仰った。「そうです。一人ひとりがどうせ自分の1票くらいじゃ・・・と思ってしまったら大変なことになります。そういう1票1票が集まれば、大きな力になります。あなたがそばの誰か一人に同じことを話してくださって、その人がまたもう一人に話せば・・・」と私。

 

たとえ1票でも・・・というみんなの気持ちが集まって、専門家たちの予測を覆す波乱が起こることを期待したい。

 

 

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今日のスーパー前スタンディングアピールとチラシ配り風景。

「ガテン系」にガッテン、ガッテン!と愛知大学前駅でのスタンディング

雨の中、朝から外壁を水洗いする機械の大きな音が響いている。9月初旬からという通知だったが、ひと月近く遅れて、今月から私の住む棟の外壁の塗装工事に入った。

 

樹木の伐採(おかげで我が家のライラックモッコウバラジャスミンもツルハナナスもすべてきれいに根元からなくなってしまった。共用スペースなのだから致し方ない。工事前の確認の際にも、お好きに伐採してください、文句は申しませんと伝えた)に始まり、次に足場が組まれ、今日と明日は水洗い工事とのことだ。

 

2日間ベランダに洗濯物や布団は干せませんと通知したからか、あるいは初めからこの作業は晴雨関係なくするものなのか、作業員の方たちは雨をものともせず働いている。

 

こうした作業を間近に見ていると、ガテン系の仕事というのはなかなか魅力的だ。なぜか私は昔から職人仕事が好きで、子供の頃にうっとりしながら見た、大工さんがカンナ掛けする姿や、左官さんの見事な鏝さばきなど、強く脳裏に焼き付いている。長い修練の果てに会得する繊細な技の持ち主など、一も二もなく尊敬してしまう。

 

ところで、先程使った「ガテン系」という言葉、いつの間にかなんとなく理解してしまっていたが、自分で使用したのは初めてである。いったいなぜ「ガテン」なのだろうと思って改めて調べてみたら、「リクルート出版から出ている就職情報誌『ガテン』からきた言葉」なのだそうだ。

 

そして、その「ガテン」という情報誌の名前はどこから来たのか、外国語か?と思ったら、なんと、職人さんたちが使う「合点・がてん・がってんだ」という言葉がもとになっているのだそうだ。

 

・・・と、今回初めて「ガテン系」という言葉にガッテンした。ガッテン、ガッテン!

 

 

夫の実家の弘前に転居し同居を始めた後、姑と嫁と女が二人も遊んでいる家はない・・・ということで二歳半の次男を保育園に預けて、婚家の親戚筋の会社で働き始めた。その会社が建設資材を扱う会社で、内装工事の下請けもしていたので、出入りの職人さんがいた。当時すでに建設業は不況と言われて久しかったが、それでも、親方はもちろん、「手元」と言われる下働きの人でも結構いい日当を取っていたように記憶する。

 

今、ここで作業をしている人たちの労働条件は、どのようなものなのだろう。新国立競技場の建設現場では、あまりの過酷な労働に疲れ果てて自殺者が出てしまったが、うちの団地の現場は朝8時半か9時頃に始まって、お昼のほかに10時と3時には休憩があり、そして夕方5時頃には終了している。収入のほどは分からないが、労働時間に関してはたいへん健全そうだ。

 

どんな仕事も、しかるべき敬意をもって遇せられ、労働に見合った報酬や待遇が保証されてほしいと心から願う。経済大国でも軍事大国でもなくて良いから、世の中全体が、真にボトムアップ型の誰にとっても穏やかで暮らしやすいものになってほしい。二度や三度の選挙では大して変わらないかもしれないけれど、そんな未来がいつか来ることを信じたい。

 

・・・とここまで書いたところで中断し、4時から渥美線愛知大学前駅で「選挙に行こう」のスタンディングアピールをする予定になっていたために出かけた。明日が愛知大学での期日前投票日なのだ。

 

雨天だったけれども決行。参加者は4人だった。4時1分、16分、31分、46分の4本の上り電車を送った。このうち1分はあまり乗客がいなかったけれど、あとの3本はホームにいっぱいの学生がいて、道路を挟んだ向かい側に立つ私たちが掲げる、模造紙で作った大きなプラカードを見てくれていた。もちろんスマホ画面から目を上げない人もいるし、プラカードを見てくれた人でも投票に行くかどうかは分からない。でも、残された日々、できることをするしかない。

 

このあといつもの豊橋駅前に移動し、定刻より少し時間が早いが、30分スタンディングして帰宅した。

 

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愛知大学前駅。右側の車が連なっているのが国道259号線。この道路の、駅とは反対側の歩道でスタンディングした。