よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

人生の無情に触れる

毎年元旦に届いていた賀状が昨年届かず、気になっていた方がある。今年も届かなかったので、これはもう何かあったに違いないと確信した。

 

私が神奈川を離れるとき、とても残念がってくださって、「代わりにこれからはお姉さまとお付き合いさせていただくわ」と仰った。そして、その言葉通り、姉がギャラリーで開く刺繍作品展にも、自宅で催す定期的な作品展にも、都合がつく限り来てくださっていたという。

 

きっと姉なら最近の消息を知っているだろうと思い電話で尋ねると、なんとパーキンソン病を患っていらっしゃるとのことだった。それで筆をとることができなくなってしまったらしい。

 

 

四十余年前、東京の会社に勤めていた夫と結婚した私は、夫が見つけた小さいけれどちょっと広めの庭があり、後ろに川が流れているためとても日当たりの良い借家に住むことになった。そして向こう三軒両隣に引っ越しの挨拶に回った。

 

川沿いの我が家の並び(このため、のちに豪雨で怖い思いをした)に比べ、向かい側の家並みはかなりの高台になっていて、お向かいさんに伺うため階段を上っていくと、芝生の庭に小ぶりではあるがお子さん用のプールが作られたお宅だった。

 

玄関のチャイムを鳴らすと、気持ちの良い春の日だったこともあり、その芝生の庭に面したリビングの掃き出し窓が解放されていて、そこからお返事の声がした。それが、その方との出会いだった。

 

きめが細かくて色が白いその人は、素顔に口紅だけをさし、髪の手入れにかかる時間が惜しいからと小気味よいほどのショートカットで、キラキラ輝く瞳と歯切れのよい話し方で近所のお店や医院まで説明して下さり、今でもそのシーンがはっきりよみがえるほど、私に強烈な第一印象を残した。

 

玉川学園に通っている小学一年生のお嬢さんが私と仲良しになり、よく我が家に遊びに来たりしたので、その後も時々お話しする機会があり、話すたびに多くの刺激や学びをいただいた。

 

やがて私が長男を産んだ時には、親の反対した結婚だったため意地を張って里帰り出産をしなかった私に、じつに細やかな援助をしてくださった。夜中に病院に行く必要ができたら、遠慮なく連絡するように(我が家は車がなかったというか、夫は免許も持っていなかった)と言ってくれ、生まれると母乳の出が良くなるようにと特製のお弁当を病院に届けてくれ、家に戻れば赤ちゃんの沐浴に毎日通ってきてくださった。

 

ほしくてたまらなかったものの、初めての育児でともすると不安になる私を、「親が手をつないで歩いていても事故に遭うときは遭うの。それぞれその子が持って生まれる運命があるのだから!」と言ってくださったその言葉にどんなに励まされたことだろう。

 

布おむつを自宅で洗うのが当たり前だったころに、自分の時間を確保したいからとレンタルおむつを使い、専業主婦なのに一人娘さんを保育園に預けて読書やテニスを楽しみ、同居の母上やときには近所の方にも呆れられたと、ご自分の育児を話してくださった。主婦の井戸端会議に加わることは決してなく、でもお高くとまっているという印象は与えない。革新的で自分をしっかり持っていた。

 

私がUターンする夫に従って青森に転居した後も、折に触れ手紙や電話(舅姑と同居だったのでかなり神経を使ってかけてくださった)で心配してくださった。だんだん年賀状のやり取りだけになってしまったけれど、作品展などで姉の顔を見ると私の消息を尋ねてくださっていたそうだ。

 

聡明な人というのは、このような人を言うのだなとずっと思っている。とても大切な友人であり、尊敬する人生の先輩だ。

 

そのキラキラしていた方が、難病で不自由な思いをしているなんて・・・。字を書くことはできないが電話で話すことは大丈夫ということだが、それでなくても電話が苦手な私は、どうしようか、いま少々戸惑っている。まずはお返事無用と断って手紙をしたためてみようか・・・。

 

 

そして、今日は、今までスタンディングやじじばばの会の活動を一番記事に取り上げてくれて、不愛想ながら最も人間関係ができていた地元紙の記者さんが亡くなったという連絡が入った。心不全、58歳だという。

 

人生の無情を感じている。

 

 

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これは去年の2月中旬の梅園の白梅。今年はいつ頃ほころぶでしょう。