よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

『霊長類ヒト科動物図鑑』向田邦子著、お見事!

久々に小気味良い日本語を堪能し、充実した読後感だ。それとともに、描かれている世界も含めて、私たちはなんとも素晴らしい大切なものを失ってしまったことよと痛感し、寂しい気持ちにもさせられる。

その寂しさは、向田邦子という練達の書き手を思いがけぬ事故で早く失ったということももちろんあるけれど、それ以上に、本著のなかに繰り広げられている日常ー今時の言い方にすれば「昭和の風景」となるのだろうかーを失ってしまったことからくる。


向田さんの父上は『父の詫び状』を始め、数々の向田さんの著作に登場する頑固おやじのモデルとして有名だ。それにしても本作を読んで改めて、母上はさぞや大変だったであろう、母上のみならず、この時代の女性たちはなんと理不尽な男尊女卑社会で我慢していたことかと思う。

思う、のだけれども、自由を手に入れ、男の無理難題の前にかしずくことから解放された今の女性たちが、それほど幸せそうに感じられない気もするのはなぜだろう。

『寸劇』で見事に描き出される女の世界の駆け引き・・・といってもドロドロしたものではない。来客が手にしてきた風呂敷包み、玄関で「つまらいものですが・・・」と渡されればよいが、コートと一緒に上り口に置き帰りに出す方もいる。そうした時にその中身がなにかを推察し、ケーキを持ってきた方にケーキを出したりすることのないよう、また松茸のように高価な物らしくてしかも時分時にいらした客であれば、鰻重を取ってお出しする配慮も必要など、まさに企業の営業活動の最前線と変わらないほどの緊張感だ。こうしたことを和やかな挨拶言葉を交わしながら、脳裏でクルクルと算段していた昔の主婦ってスゴイ!と思わざるを得ない。

『傷だらけの茄子』では台風にまつわる家庭の風景が描かれる。気負い込んでいっぱいご飯を仕掛けおにぎりを準備する祖母や母、仕事から帰った父は懐中電灯と電池などを確認する。いつもと違う大人たちにワクワクする子供、でもワクワクしている様子など見せれば父親に叱られるので神妙そうに振る舞っている。大騒ぎしたわりに台風がそれてしまうと、なあんだという気分になる。大人も拍子抜けしているに違いないのに、少しもそう見せないようにするのが憎らしい・・・。



そうなのだ。昔、大人たちはみな演じていたのだと思う。父親役、母親役・・・、それ以前に自分であって、その自分は大工仕事が不得手であったり怖がりであったりしても、父親である以上は威厳を保たねば。自分は面倒くさがりで料理も嫌いでも、母親である以上ある程度は家の中をきちんとしなければならなかったし、出来合いのお惣菜もないから作らざるを得なかった。

こうして役割を演じる責任感で、大人はちゃんと大人だったのだ。きっと。あの頃だって父親も時には仕事に行きたくない日があっただろうし、母親もご飯を作りたくない日もあっただろう。でも一人の自由な人間であることより、家庭での、社会での役割を、大人たるもの演じ切らねば笑われる、そういう社会の不文律のようなものが生きていたのではないだろうか。

個人の自由が尊重され、母親らしくとか父親らしくとか学生らしくとかいう枠からも解放された。人々は他人に干渉することを避け、近所に暮らしていても深く言葉を交わすこともない。妻役が、夫役が、嫌になればサッサと役を降りることもできる。そのことに後ろ指をさす人も陰口をたたく人もいない。

自分自身役割を演じきれなかっただめな大人なのだけれど、この自由な世の中が、果たして人々に幸せをもたらしたのかどうかは分からない。ただ明らかなことは時間は決して戻せないし、人間は自由でラクな方へ流されるということだろう。

『丁半』で、向田さんは、この時代、女は自分の人生そのものが大いなる博打だったから、男に比べ、母親は賭け事をする必要を感じなかったのかもしれないと言っている。「見合い結婚。海のものとも山のものとも判らない男と一緒に暮らす。その男の子供を産む。その男の母親に仕え、その人の死に水をとる。どれを取っても、大博打である」と向田さんは書いている。マージャンやパチンコをして喜んでいる男たちより、女はずっと真剣勝負の丁半をしていたのかもしれない。


時は流れ、人は変わり、言葉も変わっていく。誰もそれらを止めることはできない。
せめてときどき、本の世界で流れを遡り、懐かしさと遊ぼう・・・。