よんばば つれづれ

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紫のスターチスがあふれてウットリの勤労感謝の日

今日も部屋の中には陽ざしがいっぱい。これだけで幸せになれてしまう私はウキウキ。そのうえ、昨日ご近所さんから紫色のスターチスをたくさんいただいたので、狭い家の中は花であふれて、さらに幸福度アップ。

 

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こっちにも・・・

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さらに台所にも

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だんだん切り詰めていくため、花瓶と花のバランスが少々悪い。

 

この他にもまだ一束、ドライフラワーにするべく乾燥させている。

 

 

勤労感謝の日にちなんで、今日の東京新聞のコラムに「お忙しいですか」と挨拶されたら何と答えるかという話が紹介されていた。塩野七生さんによれば、外国人の集まるシンポジウム会場でこの問いをすれば、返事はそろって「不幸にして」だそうだ。日本では「おかげさまで」、つまり「幸いにも」なのだと教えると、ほぼ全員が口をポカンと開けたとのこと。

 

勤勉なためか日本人は、働かないで暮らしていることに罪悪感を覚える人が多い。もともとそうなのか、うまいこと上つ方にそう飼いならされてしまったのか。明治のころの小説には、結構働かないでのんびり暮らしている人が登場する。高等遊民などと呼ばれ、揶揄する響きもあったのかも知れないが、表面上はいちおう「高等」と敬意を表してくれている。

 

そんなのどかさも今は昔。ひきこもりだのプータローだのと、侮蔑的な響きのレッテルが貼られてしまう。やっと大きな顔をして遊んでいられるようになった年金生活者にも、元気なうちは働きましょうと掛け声がかかるようになってしまった。それにまた、結構喜んで応えてしまう高齢者も少なくないようだ。

 

今日が勤労感謝の日だということも、巷は三連休だということも、昨日になってやっと気づくという、申し訳ない、毎日が日曜日の私。勤労して社会を支えてくださっている皆々様、感謝申し上げます。

文学をめぐる探索『太宰治の辞書』北村薫著

著者のデビュー作である『空飛ぶ馬』に始まる「円紫さんと私」シリーズの、17年ぶりとなる最新作(2015年出版)だそうだ。デビュー作では女子大生だった主人公の「私」は、小さな出版社の編集者となり、中学生の息子のいる母になっている。

 

第一作からのファンであれば、ああ、彼女もこんなに成長したのねえ・・・と感慨もひとしおかも知れないが、あいにく私はただ題名に惹かれて手にしただけで、「円紫さんと私」シリーズはまるで読んでおらず、この作品についてなんの予備知識もなく読み始めた。

 

そのため、読み始めてからしばらくは、これがフィクションなのかノンフィクションなのかさえ判断がつきかねる状態で読んでいた。

 

内容は三つの章に分かれ、最初が「花火」という題で、芥川龍之介の『舞踏会』とピエール・ロチの『日本印象記』との関連を探っていく話だ。その中に三島由紀夫やら太宰治江藤淳の文章がひかれ、文学好きにはたまらないであろう蘊蓄にあふれている。

 

二番目の章は「女生徒」で、太宰治の同名の短篇が、実際に太宰のもとに送られてきた有明淑(ありあけしず)という女性の日記をもとにしているという話だ。ほとんどそのままの部分もあれば、太宰が脚色したところもあり、有明が自分の下着にした刺繍は苺だったのを太宰は薔薇に変更した、その文学的意味などに言及する。

 

この章に「私」の大学時代の友人として登場する「正ちゃん」という女性が魅力的だ。男のような物言いで、性格もサバサバとして豪快。やっと小説の面白さ花開く、といった感じだ。この章にもたくさんの文学者の名前からピースの又吉さんの名まで登場する。引用文も多く味わいも深い。

 

最後の章は表題の「太宰治の辞書」。前の章の「女生徒」に出てくる《ロココ料理》のところで、太宰はロココについて「辞書をひいた」と書いている。その定義が悪意に満ちていて、いったい太宰のひいた辞書は何だったのかとの疑問が円紫から「私」に出される。そうして主人公は太宰の辞書を探り始める。

 

この章の中では、太宰の象徴とも思えるような「生まれてすみません」という言葉が、もともとはある詩人の一行詩だったことも明かされる。それを気に入った太宰が「二十世紀旗手」の冒頭に出典を示さないまま使い、結果的に本当の作者を葬ってしまうとになったというエピソードが語られている。

 

文学の中にひそむ不思議を追求していく「私」の知の探検に、本好きならワクワクして読み進んでしまうだろう作品だ。惜しむらくは、主人公のキャラクターがいまひとつもの足りないところか。シリーズ読者でない読み手をも、冒頭からもっと惹きつけ「私」にシンパシーを感じさせていたら、ここからシリーズ作品を遡っていきたい気持ちも強まったことだろう。

 

 

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半径600メートル圏内の毎日

退院してから間もなく1か月になるが、まだ自宅からせいぜい5、600メートルの範囲で暮らしている。映画館はもうちょっと距離があるが、行けないことはなさそうなので昨日は出かけようかと思っていた。

 

ところが、朝ダンボールを物置に片付けるために外に出たら、結構冷たい風が強めに吹いていて、思わず身を縮めた。で、ああこんな寒い中出かけるより家がいいや!と、あっさり予定変更してしまった。どうもおうち大好き人間で、「出かける」というハードルを越えるためには、相当魅力的な目的があるか、やむを得ないという条件が必要なようだ。

 

でも、こんな私も婚家にいたころは、弘前の街に出かけなければならなくなる用事が生じるのを心待ちにしていた。舅や姑と一緒なので家にいても心は休まらず、何か口実ができて街に出かけたとしても、時間を気にして戻らなければならないのだけれど、それでもお気に入りの喫茶店でコーヒーを飲むひと時はほっとできる貴重な時間で、とても楽しみだった。

 

考えてみると、実家にいた若いころも、週末はどこかに遊びに出かけるより、一週間分の洗濯と掃除を終え、きれいになって気持ちよく整った自分の部屋で、音楽をかけてコーヒーを飲むのが一番の楽しみだった。婚家にいた13年間を除いて、昔も今も私の一番のお気に入りは、スッキリした部屋でくつろぐことなんだなと今更ながら思う。

 

その大切なお気に入りの時間の重要な要素の一つだったコーヒーが、10時のお茶の時間までしか飲めなくなったのは少々寂しい。カモミールティー、ルイボスティーなどを飲んでみているが、まだコーヒーに代わる相棒を見つけられない。

 

 

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お日様が部屋に差し込んでいる、この感じがたまらなく好き。冬の陽は部屋の奥まで届いて、とりわけのどかな気分になる。これだけでしみじみ「幸せだな~」と思える、シアワセな人間だ。

NHK「おはBiz」の豊永さん

NHKの朝のニュース「おはよう日本」に「おはBiz」という経済のコーナーがある。そのキャスターの一人である豊永さんのファンである。と言っても、豊永さんがどんな人か、年齢も経歴も知らないが、たんにさっぱりとした醤油顔が好みだというのと、毎回服装がすこぶるシックでダンディなので、楽しみに見ているというだけのことなのだけれど。

 

このコーナーのもう一人のキャスター関口さんもなかなかいつも素敵な服装なので、豊永さんがお洒落上手というのではなく、もしかしたらこのコーナー担当のスタイリストさんのセンスが私好みなのかもしれない。スタイリストが対象者別になっているのかコーナー別になっているのかそれも分からないけれど、とにかくいつもこのコーナーの二人は素敵で、しかも着せられているという感じがなく、しっくり身についている。

 

内容も興味深いことが多いしキャスターの服装も楽しみなので、流しに立っていても、このコーナーが始まると急いでテレビの前に行く。豊永さんならなおさらだ。政治のニュースも、こんなふうに飛んで見に行きたくなるようならいいのだけれど・・・。

 

近ごろはお偉い方々がどんな暴言失言を吐こうが、マスコミも世間もまるでお咎めなしのようになっていて無力感を覚えてしまうが、こうして諦めてしまったらますますあちらの思うつぼ。怒り続けなくてはと思う。思うけれども、怒り続けるというのはエネルギーのいるものだ。そして体にもよくない。もうしばらくすると、「暴政症候群」という新しい病が生まれるかも?

 

 

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豊永キャスター (画像はNHKのサイトから)

 

 

宮部さんらしさを満喫『希望荘』宮部みゆき著

このところ私の好みとは少々違う作品に当たって、肩すかしの感を受けていた宮部みゆきさんだったが、今回の『希望荘』は満足のいくものだった。

 

小泉孝太郎さん主演でドラマ化された杉村三郎シリーズの第四弾の作品で、杉村の経歴や過去に扱ってきた事件などがところどころに出てはくるが、これから読み始めても問題はないと思う。

 

「聖域」「希望荘」「砂男」「二重身(ドッペルゲンガー)」の4つの短篇からなる。どれも読後に深い余韻を残すけれども、なかでも私は表題作の「希望荘」と「二重身」に惹かれた。

 

「希望荘」は両親の離婚によって長いこと別れて暮らした父親を年取ってから引き取り、テレビや雑誌で紹介される人気レストランを夫婦で経営しながら、その父親を看取った息子が杉村の依頼人だ。調査内容は、亡くなる少し前に父親が周囲の人に、過去に人を殺めたことがあるような話をしていたのだが、それが本当かどうかを調べてほしいというもの。

 

杉村が問題の35年前の事件を調べていく中で、依頼人が知らなかった別れていた頃の父親の人生や、依頼人の高校生の息子と父親(その子からすると祖父)との関係などが浮かび上がってくる。そして杉村がつきとめる意外な真実・・・。

 

宮部さんの描く、市井の片隅でけなげに生きる庶民の像は実に魅力的だ。そして少年の描き方も相変わらずうまい。運に恵まれない人生でも、懸命にまっすぐ生きようとする人と、ふと魔が差し道を踏み外してしまう人。被害者も、その遺族も、そして道を踏み外してしまった加害者までも、みな悲しくて、心が震える。

 

「二重身」は「希望荘」で登場した高校生の少年に教えられて杉村を頼ってくる少女(この少女の描写もうまいと思う)が依頼人。杉村は未成年者の依頼は受けられないと言いながら、放っておけなくて関わってしまう。

 

彼女の母が交際している人が、東北に商品を買い付けに行ったきり行方不明だという。出かけたのは、ちょうど東日本大震災が起きる直前だった。

 

この本の出版が2016年なので、この時点ですでに震災から5年が経過し、世の中ではすでにあの大災害の風化がかなり進んでいたことと思う。さらに2年たった今、私もこの作品を読んでいて、そうそう、そういえばこんなだった・・・と思いだすことが多かった。東京でも大変な揺れだった様子や、電力不足や品物の不足。原発の影響が及ぶのではないかとの不安。これで世の中は大きく変わってしまうだろうと、多くの人が思ったのではないか。

 

けれども忘れっぽい日本国民は、いまや直接の被災者でもなければ、ほとんど震災前と地続きの生活をしてしまっているように思う。常々忘れてはいけないと思いながら、私自身、この物語を読んでいて時間的な隔たりを強く感じてしまった。

 

震災直後には多くの方がそれをテーマに作品を出版したが、震災から5年(執筆時は4年ちょっとくらいか)という時点に、この時期を舞台にして、震災を重要な要素に使いながら見事なミステリーに仕立て、短篇ながら読後に深い余韻を残す作品を紡いだ宮部さんに大いなる敬意と感謝をささげたい。

 

 

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頭ポンポンされるようなドラマ『僕らは奇跡でできている』

秋のドラマは入院中にスタートしたので、退院後に録画しておいたものをまとめて観ることから始まった。どうでもいいなと思うものが多かったなかで、『僕らは奇跡でできている』と『昭和元禄落語心中』の二つはずっと楽しみに見ている。

 

『昭和・・・』のほうは主人公の落語家八代目有楽亭八雲(岡田将生)が、真面目で不器用で生きづらそうなさまに胸が締め付けられる。反対に『僕らは・・・』のほうは「いいんだよ。君は君のままでいいんだよ」と頭を優しくポンポンとされるような心地よさを感じる。

 

けれども、こちらも主人公の相河一輝(高橋一生)に、「自分が嫌いで毎日泣いていた」という過去があるらしく、不器用で生きづらい子供時代があったようだ。どうやら来週あたり、現在は思い切り規格外れの自分を肯定できて、のびのびと生きている一輝が、なぜ毎日泣いているような子だったのか、そのあたりが描かれるようだ。

 

今までにもたくさんの優れた作品を書いてきた、橋部敦子さんの脚本だ。そして演者も主人公の高橋さんや、小林薫さん・戸田恵子さんはもちろん、箸休めのように挟まれる蟻の研究者役の児嶋一哉さんまでそれぞれ良い味を出しているし、毎回出てくる一輝がフィールドワークをする森のシーンも、美しい映像と音楽で心が洗われる。

 

主人公は刑事でも弁護士でも医者(いや榮倉奈々さん演じる歯医者は出てくるが、あくまでも自立して働く女性の仕事としての位置づけで、「医療もの」ではない)でもなく、恋愛要素もあまりないが、家族で安心して観られる良質なドラマになっていると思う。

 

ある程度数字が取れそうな類型的な作品が多い民放で、『僕らは・・・』のような新しいタイプのドラマに挑戦したことは評価したい。今までもそして今期も、作品の質と視聴率は必ずしも一致しない。視聴率も見直す必要があるとかあてにならないと言われて久しいが、やはりまだまだ様々な指標になっているようだ。だから数字はふるわないらしいこのドラマを、ちょっと応援したくて取り上げてみた。

 

 

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一輝の友達カメのジョージと。(画像はウェブ上からお借りしました)

明日目覚めるのが怖くなる?『わたしの本の空白は』近藤史恵著

ある日目覚めたら、自分がどこにいるのかも分からず、名前も年齢も何も思い出せない。どうやら自分がいる場所は病院らしく、身体的には何ら問題ないので退院してくださいと言われる。迎えに来た男は夫だと言うが、まるで親しみを感じることができない。夢の中に出てくる美しい男性には、胸を締め付けられるほどの懐かしさや愛情を感じるというのに・・・。果たして夫だというこの男に付いて行っていいのか。連れていかれるところは本当に自分の家なのだろうか。

 

主人公のこんな状況から物語は始まる。記憶喪失というドラマや映画でもよく見かけるシチュエーションだ。小説で、しかも主人公の独白という形で語られると、自分が何者とも分からない主人公の心細さや不安が、ひしひしと読み手の心に迫ってくる。

 

徐々に、自分は三笠南という名で、夫慎也とその母や姉と一緒に暮らしていたと分かってくる。退院の日に仕事で来られない夫の代わりに義姉が迎えに来てくれるが、どうも自分のことを快く思っていないらしい。記憶をなくす前、自分は人に嫌われるようなそういう人間だったのだろうか。義母は優しいが、認知症で自分のことをキミちゃんなどと呼んだりする。

 

やがて夫から自分には小雪という実の妹がいると聞き、彼女と会って以前の自分のことを聞くが、小雪の話す慎也の人物像は、実際の夫とはまるで同じ人物とは思えない。むしろたびたび夢の中に出てくる慕わしく美しい男性にこそぴったりする。

 

南は自宅の階段から落下したことが原因で記憶を失くしたようなのだが、義姉が打ち明けたところによると、彼女を突き落としたのは夫の慎也だという。自分と夫との間には何があったのか、夢の中の男性は何者なのか・・・。

 

こうして主人公南の霧に包まれた過去が、ミステリアスに展開していく。途中から渚というもう一人の女性が物語に絡んできて、南の夢の中の美しい男の一面が描かれる。

 

物語全体の温度が低いというか、冷静な感じがして、男女の愛の交錯を描きながら、なぜか誰もそれほど熱さを感じさせる人物がいない。登場人物にはあまり感情移入してしまう対象はいなかったが、物語の面白さに引き込まれて一気に読んでしまった。

 

男と女の愛憎物語というより、サスペンスの要素が印象に残る。簡単に記憶喪失になることはあるまいが、ある日目覚めたら自分が何者か分からないなんてことが起きるとしたら、眠るのが恐ろしくなってしまいそうだ。たとえ、まっさらにしてやり直したいような、ダメダメな自分だったとしても・・・。

 

 

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