よんばば つれづれ

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文学をめぐる探索『太宰治の辞書』北村薫著

著者のデビュー作である『空飛ぶ馬』に始まる「円紫さんと私」シリーズの、17年ぶりとなる最新作(2015年出版)だそうだ。デビュー作では女子大生だった主人公の「私」は、小さな出版社の編集者となり、中学生の息子のいる母になっている。

 

第一作からのファンであれば、ああ、彼女もこんなに成長したのねえ・・・と感慨もひとしおかも知れないが、あいにく私はただ題名に惹かれて手にしただけで、「円紫さんと私」シリーズはまるで読んでおらず、この作品についてなんの予備知識もなく読み始めた。

 

そのため、読み始めてからしばらくは、これがフィクションなのかノンフィクションなのかさえ判断がつきかねる状態で読んでいた。

 

内容は三つの章に分かれ、最初が「花火」という題で、芥川龍之介の『舞踏会』とピエール・ロチの『日本印象記』との関連を探っていく話だ。その中に三島由紀夫やら太宰治江藤淳の文章がひかれ、文学好きにはたまらないであろう蘊蓄にあふれている。

 

二番目の章は「女生徒」で、太宰治の同名の短篇が、実際に太宰のもとに送られてきた有明淑(ありあけしず)という女性の日記をもとにしているという話だ。ほとんどそのままの部分もあれば、太宰が脚色したところもあり、有明が自分の下着にした刺繍は苺だったのを太宰は薔薇に変更した、その文学的意味などに言及する。

 

この章に「私」の大学時代の友人として登場する「正ちゃん」という女性が魅力的だ。男のような物言いで、性格もサバサバとして豪快。やっと小説の面白さ花開く、といった感じだ。この章にもたくさんの文学者の名前からピースの又吉さんの名まで登場する。引用文も多く味わいも深い。

 

最後の章は表題の「太宰治の辞書」。前の章の「女生徒」に出てくる《ロココ料理》のところで、太宰はロココについて「辞書をひいた」と書いている。その定義が悪意に満ちていて、いったい太宰のひいた辞書は何だったのかとの疑問が円紫から「私」に出される。そうして主人公は太宰の辞書を探り始める。

 

この章の中では、太宰の象徴とも思えるような「生まれてすみません」という言葉が、もともとはある詩人の一行詩だったことも明かされる。それを気に入った太宰が「二十世紀旗手」の冒頭に出典を示さないまま使い、結果的に本当の作者を葬ってしまうとになったというエピソードが語られている。

 

文学の中にひそむ不思議を追求していく「私」の知の探検に、本好きならワクワクして読み進んでしまうだろう作品だ。惜しむらくは、主人公のキャラクターがいまひとつもの足りないところか。シリーズ読者でない読み手をも、冒頭からもっと惹きつけ「私」にシンパシーを感じさせていたら、ここからシリーズ作品を遡っていきたい気持ちも強まったことだろう。

 

 

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