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よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

駅伝はキムタクだった?

暮らし 社会のこと

土曜日。愛知大学連携講座市民大学の第二回目の日だった。今日のテーマは「古代の三河国東海道」ということで、律令国家の成り立ちと当時のこの地方の様子などについて教えていただいた。面白くて1時間半では物足りないくらいだった。

 

701年に律ができ、702年に令ができて、702年律令国家が成立したのだそうだが、それからなんと1970年代くらいまで、なごりや影響が残ったというのだから、すごいシステムを創りだしたものだ。

 

特に興味深かったのは、東海道が、7世紀頃には都から三重県の志摩のあたりまで来て、そこから海路で渥美半島を経由して東に向かう、まさに東海道は東「海道」、海を使う道だったということだ。7世紀の人たちが、現代のフェリーと同じ経路を利用していたというのが面白い。そんな訳で、その頃は名古屋(尾張)は東海道でなく東山道に入っていたとか。

 

便利だからといって片方の街道ばかりが利用されると、利用されない街道筋の方から不平が出るため、目的地によって使う道が決められていたというのも、千何百年前の昔から人の気持ちは同じなのだなと、なんだか奈良時代の人々が急に身近に感じられる気がした。この決まりから考えると、蝦夷の征伐に行った坂上田村麻呂東山道を通って行ったと考えられるとか。

 

いまやお正月の風物詩ともなっている駅伝だけれど、この言葉も実はこの頃にルーツがあるのだそうだ。中央と地方の連絡のために郡ごとに「伝」が置かれ、さらに細かく駅が置かれ、それぞれに準備しておく馬の数も決められていた。それが駅制、伝制でありそこに置かれていた馬が駅馬、伝馬であり、のちに両方合わせて「駅伝」と言われるようになったのだそうだ。「駅制伝制」あるいは「駅馬伝馬」を省略して「駅伝」、つまり「キムタク」のような成り立ちの言葉だったのだ。

 

資料の中に、三河国に置かれた郡として、「額田郡」「賀茂郡」「幡豆郡」「宝飯郡」などの名称が見られ、これらの地名はわりと最近まで残っていたのだけれど、平成の大合併でだいぶ消えてしまった。歴史や古文書の中にある地名が消え、やがてそこに暮らす人々の記憶からも忘れ去られていくのはやはり残念に思う。これから過疎化がさらに進めば、行政を合理化するために合併は避けられないことかもしれないが、なるべく歴史を伝える古い名称を大切にする工夫をしてほしい。

 

楽しいあっという間の古代史の講義を終えたあと、今日は2時からスタンディングのミーティングがあるので、そのまま愛知大学前駅から電車に乗り、駅ビルでゆっくりランチと食後のデザートやお茶を楽しんでミーティングに参加。このところ週いちのスタンディングも月いちの19日の集会&パレードにも参加していないため、久しぶりに会う仲間たちだった。

 

今日の主な議題は今月29日のハロウィンパレード。これは19日のパレード(こちらは長年の活動団体が主体)と違ってスタンディングのグループ独自でするので、政党ののぼり旗や勇ましいコールもなしで、明るく楽しい雰囲気の企画だ。メインは去年のハロウィンパレードにもお願いしたチンドン屋さん。反戦とか憲法とかは前面に出さず、自分の頭で考え、平和な社会を繋いでいこうと訴える、誰でも気軽に飛び入り参加できるパレードを目指す。

 

 

朝10時に家を出て、帰りに少し食料品など買い物をして帰宅すると5時半ころだった。何の心配もなくこれだけ家を空けられる寂しさ・・・。面倒を見る相手がいないのは気楽で自由だけれど・・・。

 

 

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キャンパス内の立て看板。