よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

『満州難民』三八度線に阻まれた命 井上卓弥著

今まで手記や小説に描かれた満州引き上げの話はだいぶ読んできたけれど、戦後70年の節目に出版されたこの本は、おそらく「初の本格的ノンフィクション作品」ということで手にした。

 

1945年8月9日、ソ連軍が国境を破って満州に侵攻した。この日を境にして大陸にかけた人々の夢はついえ、長い苦難の日々が始まる。守ってくれるはずの関東軍はさっさと撤退し、続いて満鉄社員の家族、官吏家族と通達され避難を完了し、民間人は取り残される。

 

満州の首都新京(現長春)にいた民間人の家族(すでに男は40歳まで徴集され、ほとんど女こどもばかり)も、それぞれに住み慣れた家をあとに逃げ出した。そして乗り込んだ列車の都合などに翻弄され、1000人余りの人が朝鮮北部の郭山という小さな町に避難を余儀なくされる。そこは日本人居留民も少ない所だったため、受け入れる能力も援助する力もあまりなく、人々は避難民の中でもとりわけ悲惨な状態に置かれ、筆者は「引揚者とも避難民ともとても呼べない、『難民』というしかない運命に置かれた人々だった」と書く。

 

その人々を率いた人の中に、几帳面に記録を取っていた人があり、その記録や生存者からの聞き取りなどをもとに、海外で戦争や難民の取材経験もある(実はこの郭山難民の親族でもある)筆者がまとめたこの本は、情に流れず淡々と当時の状況を書いているのだけれど、それゆえさらに過酷悲惨な状況がくっきりと浮かび上がっている。

 

たくさんの悲しい数字が並ぶが、なかでも「郭山到着後に誕生した新生児34人のうち、生き残ったのはただ1人」という数には愕然とするしかない。平和な時代にのんびりと子育てできた幸せが申し訳ないようだ。九死に一生を得て祖国に帰りついても、たいていの人が親族にもこのことについて語りたがらなかったのも無理ないと思う。母乳は出ず、飲ませることも食べさせることもできず、栄養失調やほんの些細な病でわが子を死なせなければならなかった母親は、どんなに辛かったことだろう。

 

 

それにしても、敗戦が確定的になったとき、国策で満州に追いやっておきながら、外地にいる民間人に対して国のとった策は「居留民の現地定着方針」だった。現地定着などと言えば聞こえがいいが、要するに「帰って来られても困るよ」と言わんばかりの「棄民」である。

 

満州に追いやった時点で棄民し、引き揚げ時に放り出して棄民し、艱難辛苦の末に命からがら祖国にたどり着いても、受け入れる親類縁者がなければ、山奥のとても耕作になど向かないような荒れた開墾地を与えるだけという冷たさで、この国の為政者は二度も三度も自国の民を捨てている。

 

さらに腹立たしいのは、この満蒙開拓移民を推進し、満蒙開拓青少年義勇軍を設立して自らの手で8万人を満洲へと送り出した張本人が責任を追及されるでもなくのうのうと戦後も教育者として生き延びたということだ(このことは本書では触れていない)。それ以前に、おおもとのこの侵略戦争を始め、日本を泥沼に引きずり込んだ者たちさえ大きな顔をして戦後を生きたのだ。某総理の祖父のように。

 

戦争について知れば知るほど感じるのは理不尽さばかりだ。敵も味方も、末端の一個人はたいてい恩も感謝も知る優しい人間だ。守るべき地位や財産を持つと、とかく人は恩や感謝を忘れ、戦争となればケモノにも鬼にもなってしまう。外国に攻め込まれたり殺されるのも嫌だけれど、自分がケモノや鬼になるのはもっと嫌だ。そしてその戦争を避けるのに、武力による抑止力がはたして効果的なのだろうか・・・。

 

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