よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

解散する老人会

今日は所属する更生保護女性会のミーティングがあった。今年度の活動も半分が過ぎ、大きなイベントはあらかた終了したので、中間の会計報告やこれからの予定の確認などが主な議題だった。

全くの民間団体であるユネスコ協会の方はかなりの貧乏所帯で、やはり先日の理事会で中間決算報告があったけれど、年度半ばにしてほとんどのプロジェクトが残り予算僅か、すでに予算オーバーしているものもあったのに対し、こちらは法務省の下に連なる組織で十分な年間予算がついているため、主だった行事を終えたにもかかわらず残り予算がたっぷりあって、何か独自の新しい活動を考えようかという提案さえ出るような状況だ。

子供達の登下校の際の見守り活動が話題にのぼり、これは地域の老人会が中心になって行っているのだけれど、人が足りないのか活動が不活発になってきているのではないかという意見が出た。ある地区では老人会を解散したと言う。私の自治会でも、近頃は敬老会に新たに加入する人が少なくなっている。高齢者が元気で若々しいことを誇る世の中になって、みなさん「老人」扱いされることを嫌うようだ。

家に帰り、例によって「老人会 解散」でネットで検索してみると、確かにたくさんヒットする。今やあちこちで出てきている問題なのだろう。


私自身も年を取ることは嬉しくないし、体の衰えを実感したり不便や不安を感じることも少しずつ出てきている。孫に「おばあちゃん」と呼ばれることは何でもないが、他人にそう呼ばれたらいい気分はしないだろう。

けれども、人は誰でも年を取る。子供は子供らしく、若者は若者らしく、老人は老人らしいのが生きものとしてのあるべき姿だ。超高齢化の時代で市場の需要は高まるばかりだからか、アンチエイジングの研究が盛んだ。体の酸化や糖化を防げば老化を防げるのだそうだが、下降するカーブをいくぶん緩やかにするくらいはいいかもしれないけれど、あまりその努力が過ぎればまた別の問題が起こって来ないだろうか。

それよりも、時間的余裕の持てる高齢者はその立場を活用して、地域に少しでも貢献してはどうだろうか。老人会という呼称に抵抗を感じるのなら名前を変えてもいい。ただ、名称にこだわるより、老人というもののイメージそのものを変えてしまうほうが建設的な気がする。老人とか高齢者が、落ち着き、分別、思いやりなどを持った、尊敬すべき人生の先輩というプラスイメージが強くなれば、その名で呼ばれることに抵抗はなくなるのではないだろうか。


せっかく地域に根差し活動してきた老人会を、簡単に解散してしまうことはもったいなくないだろうか。世話役を引き受ける人が見つからない、活動に意味がないなど、解散する理由は様々あるだろうけれど、ならば自分たちで時代にあった意味のある活動をしたらどうだろう。学校帰りの子供達が巻き込まれる事件は後を絶たない。下校の時間帯にウオーキングを兼ねて、数人のグループで子供達に声を掛けながら歩く、なんて活動はすぐにも始められそうだ。終わって時間に余裕があれば皆でお茶を飲んでおしゃべりしてもいい。世話役も特定の人に負担が集中しないよう工夫すれば良いし、私は「お役」そのものをみんなが「やっかいなもの」「引き受けるのは要領の悪いお人よし」のように見ないで、昔のように「一目置かれる存在」に変えれば、やりたい人、向いている人もきっと出てくるのではないかと思っている。



この地域の老人会が行っている「子ども見守り隊」の活動が、人員不足で十分活動できないのなら、更生保護女性会も加わって、特に下校時の声掛けはしっかり行いたいと思う。地域の大人の目が光っている、これこそがすぐできて効果的な防犯対策だと思うから。