よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

『乙女の密告』赤染晶子著

母を訪ねた帰りに市民館に寄って新しい本を借りてきた。いつもだいたい3冊。なぜか3冊。

まずいちばんに『乙女の密告』を昼食の後から読み始め、短い作品なのでもう読み終えてしまった。先日読んだ池上彰さんの『世界を変えた10冊』の『赤毛のアン』の章の中にこの本のことが出てきたので興味を持った。

2010年143回の芥川賞受賞作だ。へそ曲がりで何につけあまり権威が好きでない私は、今までほとんど賞を取ったような作品を積極的には読もうとしなかった。少し大人になったのか、読みもせずに批判していてはいけないと思い至り、このところポツポツと読み始めている。そうしたらなぜか市民館に「受賞作品」というコーナーができたので、最近は毎回その中から1冊は選ぶようにしている。

アンネの日記』は中学生時代に読んで私自身もかなり衝撃を受けた覚えがあるし、池上さんも例の著書で10冊の最初にこの本を持って来ていたくらいで、やはり重い本だと思う。なのに、なぜかこの作品の中では随分と軽く扱われてしまったように感じた。「血を吐く」などという激しい言葉を使いながら、「乙女の皆さん!ちゃんと、血ぃ、吐かなあかんやんか!」と、何とも軽い。

描かれている外語大に通う「乙女たち」も、いったいいつの時代の女子学生かと感じる。メタファーとかパロディーとかであって、実際の彼女たちではないのかもしれないが、私は終始話に入っていけなかった。アンネを取り上げたかったのであれば、まさにもっと「血を吐く」思いをして、全く違った形のものにしてほしかったと思う。もし私がアンネで、この作品を読んだとしたら、人をダシにしてと腹立たしく感じるだろう。


2月に読んだ『苦役列車』、去年9月に読んだ『8月の路上に捨てる』、そして今作と、私の感想としては「へえェ、芥川賞ってこういうのなんだ・・・」である。活字離れと騒ぎながら、やっぱり出版界をつまらなくしているのはその業界の人たちなんじゃないのという気さえする。作品を消耗品にして音楽界をやせ細らせているその業界の人たちと同じに・・・。

やはり本に限らず、そもそも「〇〇賞」というものに過大な期待を持つのは間違いなのだろう。ただある程度暗黙の了解事項であっても、「売らんかな」の策略が透け過ぎるとしらけるし、あまりにも賞の権威がなくなってはそもそも売ることもままならなくなるのだから、恐れずに「該当作なし」とする勇気も大切ではないかと思う。

しかし、思考停止で人の貼ってくれるラベルにばかり頼る人の多い昨今、当分この戦略が続くのだろう。その裏でジワジワと取り返しのつかないことにならないといいが。

食わず嫌いではなく、読んでみて「やっぱりね」と思わないでもないが、今後ももうしばらく受賞作品というものを手に取っていってみよう。




読書とは関係ないけれど、今日は母の表情が明るくて嬉しかった。私のことはやはり分からなくなってしまっていて寂しいが、今日はわりと会話が成立した。


19:40 追記
細かなことだけど、この作品の冒頭3番目の文に「日本人の教授は黒板を書く手を止める」とあるが、「黒板に」または「黒板へ」ではないだろうか。あるいは「板書の手を止める」か。私はもう読み始めるなりつまづいてしまった感が・・・。