よんばば つれづれ

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司馬遼太郎著『花神』

やっと読み終えた!という気分。久々に非常に読み応えのある作品でした。そもそも1972年に四巻の分冊で出版されたものを21年後に一冊にして新装改訂として出された本のようで、1ページ二段組で733ページありました。

主人公は大村益次郎。ああ、明治維新のあたりで出てきた名前・・・程度の知識しかありませんでした。どんなことをした人かさえ記憶にありません。たいてい歴史の授業は近代あたりに来ると授業時間数が残り少なくて駆け足になってしまうので、近代以降は苦手(じゃあ、それ以前は得意かと言われれば困ってしまいますが)です。

幕末から維新にかけては魅力的な時代で小説や映画、ドラマにもたくさん描かれていて、私も少なからず読んだり見たりしていますが、この人についてどの作品にも登場したという印象もありません。調べてみるとやはりいくつかの作品には登場しているようです。また司馬さんの本作をもとにNHKの大河ドラマにもなっているようですが、私は今回この本を読むまでほとんど何も知りませんでした。この人がいなかったら上野の戦いで彰義隊の方が勝っていたかも知れず、したがって明治維新やその後の日本もまるで違っていたかもしれない・・・それほどの存在だったなんて驚きでした。

けれどもこの作品を読むと、大村益次郎、本作で司馬さんは村田蔵六という名で通しているのですが、その蔵六は村の人が「お暑いですな」と声を掛けると「夏は暑いものです」と返事をしたというほど愛想のない、理屈、技術、合理の人だったようで、坂本龍馬西郷隆盛といった英雄豪傑を好む傾向の強い世の中に、あまりアピールしないタイプの人だったようです。

それなのに、そのような面白みの少ない人物を主人公にしてこの大長編を面白く読ませてしまう司馬遼太郎という作家はやはりたいしたものだと思います。ちょうど今は大河ドラマ会津視点の『八重の桜』を見ているので、読みながらあの同じ時代に一方にはこうしたドラマも進行していたんだ・・・ととても興味深く読みました。『八重・・・』を見ていると官軍は憎らしいばかりですが、本作を読んでいると、質素で無私、弁明も自慢もしない蔵六の努力がどうか報われますようにと思ってしまいます。

全く地味で付き合いにくいタイプの蔵六ですが、唯一華のある話がシーボルトの娘イネとのからみです。当時は本当に珍しかったであろう混血の美しい女性イネに、さすがに朴念仁の蔵六も心を動かされますが、決して自分の情に動かされることはしません。そして蔵六以上にイネのほうが強く彼に惹かれているようです。この地味で面白みのない男に惹かれる美貌のイネという女性の存在もこの小説を魅力的にしている大きな要素です。これは司馬さんが小説を盛り上げるためにうまく脚色もしているかもしれませんが、本作の冒頭に大阪大学の藤野教授(緒形洪庵の適塾で蔵六の後輩に当たる人の孫)が、「大村益次郎シーボルトの娘との関係、あれは恋でしたろうね」と謹直な顔で作者司馬氏に言われたという記述があるくらいなので、全くの作り話でもないようです。また実際イネは刺客に襲われ瀕死の床にあった大阪の蔵六のもとに横浜の自分の診療所を締めて駆けつけ、寝食を忘れて看病し看取っているようです。

報酬待遇などには目もくれず自分の学識や技術を必要とするところどこにでも出向き、生涯落ち着いた温かな家庭の味を味わっている暇もなかった蔵六に、天の配剤のようなイネという存在があったことに救われる思いです。そして何も知らずに安穏と暮らしている自分の陰には、さまざまな選ばれし人の、選ばれたが故の大変な困苦があり、その積み重ねの上に今の便利で平和な時代があるということを改めて思いました。どこかで何かひとつ歯車が違っていれば、今のこの世界はなかったのかもしれません。そうしたことに思いをいたすと、いまこうして生かされてある自分というものを粗末にしては先人の努力に対して申し訳ないように思います。

おりしも今日は広島原爆忌