よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

秋の桜

コスモスではありません。正真正銘「桜」の話です。

三連休開けの先週初め、出勤の道すがら見つけました。マンションの植え込みの桜が咲いていたのです。この桜の木は夏に毛虫が大量発生して、葉っぱが一枚残らず食べられてしまいました。この木を食べつくして食料がなくなると、毛虫たちは次の木に移っていきましたが、すぐにさなぎになる時期を迎えたのか、他の木は大して食べられないで済みました。

先日NHKのニュースでもどこやらのお寺の桜が咲いたと報じていました。虫がついて葉を落とした後暖かい日が続いたので春が来たと勘違いしたと言っていましたので、今年はそういう気候なのかもしれません。でも、私はこの桜の木が花を咲かせているのを見たとき、そういう風には感じませんでした。他の葉っぱのある木たちは今一生懸命葉にため込んだ糖分を分解して紅葉のもとを作っているのに、葉がなくなってしまったこの木はすることがなく、でも何かせっせとしなくてはいられない・・・と励んだ結果、「小春日和」と言うにさえ早いこの時期に蕾を作り花を咲かせてしまったように感じたのです。とても痛々しく、可哀相な気がしました。

毛虫も必死で生きています。喰うものと喰われるものがあるのは自然界の掟です。可哀相だからと人はつい自然に介入しますが、どんな形でどこまで関わるのかの判断はとても難しいことです。「トキが偏食のためビタミン不足で倒れる」というニュースをYahoo!サイトで目にしたとき、とても不自然な気持ち悪さを感じました。もうトキが「トキの形をした人工の生き物」に過ぎないように思いました。

寂しいけれど消えるものは消えさせるしかないのかもしれない。人類が快適を求めてしてきたことの結果は、辛くても悲しくても受け入れるしかありません。そこから私たちは未来の生き方を選び取っていくのだと思います。物質的豊かさと引き換えに多くの大切なものを失ったことを知った先進国ではこれ以上の便利さより少しでも自然を残したいと考えるけれど、発展途上の国々ではまだまだ豊かさも便利さも足りない、動物の生きる環境どころじゃないというところもあるでしょう。母の年齢まで生きればまだあと30年以上。日本は、地球は、どうなっているでしょう。知恵ある生き物であるはずの人類に希望を抱いて、見守っていくことにします。

季節はずれの桜

葉っぱ「一枚残らず」は訂正ですね。