よんばば つれづれ

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今日は鏡開き

鏡開きというと、賑やかだった子供の頃のことを思い出す。大きな鏡餅はもうすっかりカビだらけになってカッチカチ。それを父が割る。くたびれてしまうと長兄に代わったりして、なんとか細かくする。それからみんなでカビ取りをして、やっとお汁粉に入れることができる。こうしてワイワイといただくお汁粉は、いちだんと美味しかった。

 

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(画像はネット上からお借りしたが、実際はこのころにはカビだらけ!)

 

今こんな風にして鏡餅を割っているご家庭はどのくらいあるのだろう。私は近頃もっぱら「ラクポイポイ」のお世話になっている。割る手間もなければ、カビの心配もない。なんとまあ楽なこと。でも味気ないと言えば味気ない。現代の子供は、もう「鏡餅を割る」などという行為は知らずに大きくなるのだろう。

 

小田嶋隆さんが正月について「日本人が日本人らしくあるために、せめて正月の三が日ぐらいは正月らしく過ごさなければならないと、そんなふうに互いにとってうっとうしい圧力となって降りかかってくる習俗の正体なのである」と書いている。

 

business.nikkei.com

 

小田嶋さんのこのコラムはいつもかなり共感することが多く、今回もなるほどと思わないではないのだが、ここまでシニカルに言ってしまうと少々寂しい気もしてしまうのは、まさに私が氏の仰る「田舎者」だからであろうか。

 

まだ兄妹四人が揃っていた60年ほど前の我が家は、今までもたびたび書いていると思うが、「♪狭いながらも楽しい我が家」で、私にとっての家庭というものの原風景になっている。しかし、もしかしたら私のその思いが、無意識のうちに息子やその家族たちに、「長男は長男として、次男は次男として、何十年か前に演じていたのと同じ家族内の役柄としての子供」を演じさせているのかも知れない。

 

まあ、帰省からも解放されて、昔の家族の役割を演じることもなく、それぞれが勝手に休みを過ごせば、自由さや気ままさと引き換えに、何かしらを手放すことにもなるのかも知れない。

 

鏡開きのぜんざいをひとりで食べながら、正月について思いをはせてみた。何はともあれ、飢餓にも砲弾にも怯えることなく暮らせることのありがたさをかみしめる。