よんばば つれづれ

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未消化なままご紹介『レトリックと哲学』中西満貴典著

ご紹介するのは、コスモス会などでご一緒する先輩Oさんがお貸しくださった本。著者はOさんの甥御さんだ。前回お借りしたのは『追憶の日米野球』という作品で、「昭和6年日米野球を中心に据え、野球界や社会思潮、文化・ファッションなど、当時の新聞記事を多数引用し多面的に叙述」(Amazonの内容紹介文より)した作品だったので、結構興味深く読めたのだけれど、今回のものはちと手ごわい。

 

副題に「ケネス・バークからミシェル・フーコー」とあり、帯には「異なる対立軸の中間にジャンルをまたぐ論考を配置し、『主題』を複合的重層的に考察する」とある。フーコーの名くらいは知っているけれど、すでにこの紹介文からして「???」である。

 

本格的な哲学書と向き合うなど、高等学校の倫理社会の時間以来かも知れない。だいたいが観念的思考や論理的思考が苦手な頭なのに、慣れない専門用語やカタカナ語もどんどん出てきて、躓いてばかりいてなかなか進めない。もうとにかく深く考えず、ひたすら活字を追うことに専念する。

 

そんなことをしていたら、すんなりと理解できる部分に出くわした。

われわれは思考をつねに思考 しなければならない、と考える。そのような注意をはらわないと、ある特定の型の思考に陥ってしまいかねないからである。人間は、ともすると、楽なほうへと流れていくものである。自分で物を考える―あるいは自由に考える―ことには、思いのほか負荷がかかっている。定型化された思考―ある種パッケージ化された思考―にしたがう習性は、いわば思考のエコノミーのはたらきの産物なのかもしれない。われわれは、頭を働かせる(=労働させる)ことが必要である。さもないと、われわれの頭は、いつのまにか自分のものではなくなり、自分の意志で語っているようで、実際は、出来合いの言葉(=喧伝される言説)を使っているだけになってしまうからである。そのような機構を権力者が意図的に用いることがあれば、人びとの言動は容易に操作されてしまうことは、歴史が雄弁に語っている。 (下線部は実際には傍点)

 

現在の日本の状況について書いているのかと驚く。「歴史が雄弁に」の部分の「歴史」がどんな時代かは明らかだ。

 

現代の日本人の多くは、すでに自分の頭が自分のものではなくなってしまうところまで操作されているように思う。自分でものを考えるのは、思いのほか負荷がかかる。しんどいことなのだ。楽なほうに流れたくなるが、なんとしても踏みとどまらねば・・・。

 

 

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私が読んだのは「Ⅰ」のほうです。