よんばば つれづれ

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土曜日のスタンディングと20年ぶりの電話

毎日していたスタンディングを、去年の参院選のあとからは基本週に一回金曜日ということにした。もちろん相変わらず毎日する人もいた。それを、この間の交流会で「日も短いし、もう少し時間を早めて4時からということにし、曜日も土曜日にしてみよう」ということになり、今日がその初回だった。

 

参加者は初めは7人だったが、時間を勘違いしていて終わりころに来た人もあり、最終的には10人だった。

 

またしても”言い出しっぺ”の発案で、年賀状用の小さなシールを作った。文言はフェイスブックで募集し、100点ほど集まった中から前回の交流会で3作品を選んで、はがきの余白にちょっと貼れるような2センチちょっとと5センチ弱ほどのシールにした。今日の参加者にはさっそくその出来上がったばかりのシールが披露され、希望者にはカンパ込みのA41シート100円、3枚セット200円で分けた。

 

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言葉はお正月にふさわしいようにと、やわらかなものを選んだ。

 

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今日の私のプラカード(A2に近いほどの大きさ)

 

スタンディング後は、時間のある人だけ近くにある豊橋芸術劇場プラットの喫茶コーナーでミニミーティングをした。政治やマスコミの現状とともに、最近ニュースになった豊橋の小学校での教師の体罰事件のその後のことなどを話した。

 

 

帰宅していつもより少し遅い夕食のあと『ブラタモリ』を見ていると、電話が鳴った。「もしもし、誰だかわかる?」と少したどたどしい言葉。あまり上達していない日本語、変わらない声、すぐに分かった。豊橋に戻って間もないころに、友人に頼まれて手伝っていた日本語学校の生徒だった日系ブラジル人のNさんだ。

 

開校当初からの生徒で、来た時からかなり日本語が話せていたのだけれど、年齢も結構高かったせいか、話すことはあまり上達しなかった。そして本人の関心も、話すことより漢字のほうにあるようだった。

 

その頃から20年近くたったと思うけれど、受話器を通して聞こえてくる日本語はあまり変わっていなくて、時の隔たりを感じない。そして話の内容も、相変わらず豊富な知識に感心はするが、元気ですかなどという一般的なやりとりは始めだけで、一方的に自分の興味あることをとうとうと話すのも変わっていない。結局40分くらいしゃべっていただろうか。後半はほとんど癌にならないための食生活についてだった。

 

豊橋日系ブラジル人やペルー人がまだ大勢いた頃でもあったし、私たちの日本語学校は結構人気もあったらしく、一時はかなりの生徒が来ていた。母体となっていた学習塾が閉められることになって、間借りしていた日本語学校も続けられなくなったのだが、その後もしばらくは年賀状をくれる人も何人かいた。近所に住んでいる人には偶然会うこともあったが、だんだん疎遠になり、おそらく今も日本にいる人は少ないだろう。

 

でもNさんは日本で働き続けていた。当時の会社はすでに定年になり、今は違うところで働いているらしい。話し言葉はたどたどしくても、祖父母に鍛えられた精神は、現代の日本人よりはるかに日本人らしい人だった。何十年も日本で暮らして、今どんなふうに自分のルーツの国を見ているのだろう。今度もし会うことがあったら、そのあたりを聞いてみたいものだ。