憂いの源
このところずっと、心に灰色の靄がかかったような気分が続いている。久しくしていなかった旅なぞをすれば気が晴れるかと思ったけれども、旅の間は楽しめたものの、帰ってくれば元の木阿弥だった。
政治が、世界が、こんなだから・・・と思っていたが、今朝、毎週読んでいる小田嶋隆さんのコラムを読んで、「そうだ、そうだったんだ!」と気が付いた。
山本大臣の「学芸員はがん」発言が、論外の暴言であるとは多くの国民がそう思っているだろう。今回の失言とセットで伝えられた過去の不祥事からして、政治家としての信頼は地に堕ちたと言える。にもかかわらず、たぶん多くの国民は、「別にいいんじゃねえの?」と思っている。というよりも、「誰に代わったからって何が変わるわけでもないだろ?」ぐらいに考えている、と小田嶋氏は書いている。
つまり、誰も閣僚に高い見識や立派な人格を期待しなくなっているというこの状況こそが、安倍一強体制がもたらしている最も顕著な頽廃なのである。
われわれは、メディアにも、政治にも、粗忽軽量な大臣にも、代わりにやってくるかもしれない新任の大臣にも、あらかじめうんざりしている。この頽廃は、簡単には回復しない。たぶん、もう1回戦争がやってきて、もう1回反省するまで、この状況は改まらないだろう。
4月17日、すなわち山本大臣による「学芸員はがん」発言があった翌日、安倍首相は、都内の商業施設のオープニングセレモニーに出席し、地元・山口県の物産も積極的に販売するよう「忖度(そんたく)していただきたい」と挨拶して、笑いを取ったのだそうだ。
(中略)
安倍さんはどうやらマスコミを舐めてかかる段階に到達している。
しかも、その態度は、思いのほか多くの国民に支持されている。このことは、別の言い方で言えば、われわれが他人をバカにする人間に頼もしさを感じる段階に立ち至っていることを意味している。
そうして、次に小田嶋氏は国会での民進党山尾議員に対する答弁で、自身の言った言葉について辞書に載っている(と首相が主張する)語義をネタに、山尾議員を揶揄(むしろ「嬲る」と言ってもいいとさえ書いている)し、相手を嘲っている態度はとうてい品格のある態度ではないと続ける。
この半年ほど、首相の言動には、対話の相手を嘲弄したり、質問そのものを揶揄するような、不真面目な態度が目立つ。首相にしてみれば、あれこれと責められて反撃したい気持ちがあるだろうし、フラストレーションもあることだろう。心配なのは首相のそうした態度より、むしろ、首相が野党をバカにし、閣僚がマスコミを軽視しているその態度が、なんとなく支持を集めているように見える昨今の状況だと小田嶋氏は言う。
第1次安倍政権も、民主党政権も、相次ぐ閣僚の辞任で、求心力を無くしていった。多くの国民は、失言の悪質さを理由に辞任を求めるというよりは、むしろ、辞任したという結果から失言の悪質さを逆算するぐらいの関心度で政治報道を眺めている。
とすれば、辞任せずに知らん顔をしていれば、多くの国民は「たいした失言ではないのだな」と判断してくれるはずで、そうである以上、辞任などしない方が良いにきまっているわけだ。
私は「この半年ほど」どころではなく、もっとずっと前からテレビに映る国会での首相の答弁の態度や、野党議員の質問を聞いているときの態度に、相手をばかにしている雰囲気を感じてきた。相手の議員をばかにするということは、その後ろにいる支持者、国民をばかにするということだ。
安保法にしろ今回の共謀罪にしろ、微妙で複雑なはずの問題にいともあっさりと「絶対にありません」と言い切るのも、真剣に答弁しようという、相手(つまり国民)への誠実さに欠けるからだと思う。
それなのに、いくら野党が頼りないにしろ、支持率がいっこうに下がらないのが不思議でならなかったのだが、「われわれが他人をバカにする人間に頼もしさを感じる段階に立ち至っている」のでは、下がる訳がない。
コラムを読み終わって、私は思い至ったのだ。私は内閣不信に陥っているのでもなければ、政治不信でもない。国民不信に陥っているのだと。これこそが、私の灰色の重苦しい靄が晴れない原因なのだと。
憂えていても花は咲いてくれる。姫リンゴの花が満開、カラーも咲いた。