よんばば つれづれ

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『滴り落ちる時計たちの波紋』から『最後の変身』平野啓一郎著

平野さんの作品を初めて読んだ。非常に若くして芥川賞を受賞した方と記憶している。ほんの少し前のことと思うのだが、現在はすでに40歳を過ぎている。この『滴り・・・』は2004年の発行なので、著者30歳くらいの作品か。かなり老成した作家が書いたのではないかと思わせる作品や実験的な作品など、長さも手法もさまざまな9つの短篇が集まっている。

 

私には少々難解なものもあったが、この本の半分近くを占める、中編と言ってもいいような『最後の変身』が印象的だったので、この作品についての感想を記そうと思う。

 

「変身」という言葉から連想される通り、カフカの『変身』が重要なモチーフになっている。転勤族の父を持ち転校が多かったために、素早く空気を読んでうまく立ち回るすべを身につけ、大学を出て就職するところまで何の問題もなく過ごしてきた主人公が、ふとしたことから会社に行けなくなり自室に引きこもる話だ。

 

著者はこの作品をどうしてもインターネットのブログや掲示板の文章という体裁にしたくて、出版社ともめながらも、縦組みの本の中にこの作品のみ横組みという変則的なつくりを主張し通したのだそうだ。読者としてはページを繰っていくとき、初めのうちは少々戸惑う。

 

 

転校が多いにもかかわらず、うまく皆に溶け込み人気者になり、勉強でもスポーツでもそつなくこなし、疑問もなくその時々の「役割」を演じてきた主人公が、ふと誰とでも交換可能な役割ばかりで、「本当の俺」はどこに存在するのか、誰とも違う「個性的な」存在の「俺」とは?と考え悩み始める。「これは俺達の世代の人間全員にかけられた、忌々しい呪詛ではなかったか?」と苦しむ。

 

「何者かにならねば」他の誰とも違う何者かに!

 

こうして正の方向で何者かになることのできない者は、あがきすぎて、ある時、「殺人者」や「犯罪者」としてスルリと変身する・・・。

 

物語の終わりの方で彼は言う。”もしも、俺のこのブタのような自我が、もう少し控え目なものだったら、きっと「名もない一市民」というささやかな「役割」に一生を捧げることができただろう。だがとても無理だ。俺のこの誇大妄想も時代の病ではないか。人間は自分が恐ろしく「ちっぽけ」なものになろうとしている時、ヘラヘラ笑ってそれを受け入れるほど都合よくできていない!世界がうんと膨張していくなら、それに合わせて自分も大きくなりたいと願うのは当然じゃないのか?”と。

 

 

私はときおりこのブログにも書いてきたように、このところの子育てや教育が「オンリーワン」を偏重し過ぎて、かえって子供たちを苦しめているのではないかと思っていた。けれどもこの作品で、悩む主人公は”世界の把握範囲が広がり、しかも世界それ自体が量的に膨らんでいる。当然、人間は相対的に「ちっぽけ」になってしまっている。俺達はそれを、日々、洪水のように押し寄せる物と情報とから実感させられている!”と叫んでいる。

 

そうか、そういう要素もあったのだ!

 

この世界も、そしてそれを動かしているシステムも、もはや人間の理解や許容の範囲をとっくに超えてしまっている。適当にやり過ごすことのできない真面目な人、純粋な人ほど苦しんでいるのかも知れない。

 

 

今日も日本で、世界で、そんな苦しみのたうち回る者の起こした事件で大騒ぎだ・・・。

 

 

 

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スパティフィラム、少し緑がかってきました。