よんばば つれづれ

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荒ぶる神

昨夜はNPО法人三河三座主宰の薪能(と言っても第八回の今年は昨年オープンした穂の国豊橋芸術劇場、通称プラットでの公演だった)を鑑賞した。演目は、昨年に引き続き能楽師中所宜夫さんの新作能で「中尊」という作品だった。「フクシマの鎮魂」という副題が示すように、3年前世界にその名がとどろいたフクシマ福島第一原発を鎮魂するというものだ。


原発の鎮魂」と言う言葉を受けて、
石牟礼道子さんの詩「花を奉る」に出会った。
中尊寺に秘められた東北の歴史を知り、
盛岡で中尊寺ハスと出会った。
そして生まれた新しい能『中尊』。
フクシマの鎮魂へ向けた「修羅」の一歩。
  パンフレットより(原文ママ


演じる前の解説で中所さんは「現代の能で言葉も分かり易いので、あえてストーリーの解説はパンフレットに載せませんでした」と仰ったが、そのシテを演じる肝心の中所さんの発音に問題があり、言葉が聴き取りにくくて残念だった。やはり解説があったら良かったのにと思った。地謡の方とワキの方の言葉は比較的分かり易かったのだけれど。なぜ中所さんだけ聴き取れないのだろうと気を付けていたら、私なりに原因が分かった。「あ」行の音を言う時に、中所さんは「お」の口の形をなさっているためだった。そのため、例えば「花を奉る」と言うと「ほのおとてもつる」と聞こえてしまうのだ。お能なるものを、まだ人生で数えるほどしか鑑賞していない私が論評するのは大胆不敵だと思うけれども。

中所さんがこの新作能を思いついたのは、内田樹さんのブログの文章「原発供養」がきっかけだったそうで、能のあとに内田さんの講演と、中所さんとの対談(実際はワキの安田登さんが加わって鼎談だった)がセットされていた。

内田さんのそのブログはこちらです。→http://blog.tatsuru.com/2011/04/08_1108.php
原発を神としてもっと敬い祭るべきだったという非常に示唆に富む内容です)


内田さんはコートと鞄を手に、たった今新幹線から降りていらしたような風情で登壇、「時間は何分?何についてしゃべればいいのかな?」と打ち合せも何もないような様子で話し始められた。長年能を習っていらしゃる(ワキの安田氏とは同門とか)武道家の氏は、中世日本人の宇宙観や身体能力を知らないと武道は分からず、それを知るために能を習い始めたのだそうだが、そうして知ったふたつの共通点、徹底的な受動、自我からの解放・・・などについて実に楽しく興味深くお話し下さった。

さらに鼎談部分では、古来日本には風と水を司る海人部と、野生の獣を司る馬飼部とがいて、「海幸、山幸」「平氏と源氏」に象徴的だという話が出た。源氏に平氏が滅ぼされ、その後歴史の舞台から消える海人部が700年たった幕末、突如表舞台に現れる、勝海舟坂本龍馬も船を操る人、海人部の流れをくむ・・・と実に壮大な日本史物語が語られ興味は尽きなかった。

けれども内田氏は最終の新幹線で東京に戻らねばならず、時間切れ。飾らず気取らず、情熱的で若々しい、大変魅力的な方だった。ただひとつ残念だったのは、今回私は一番前の真ん中近くの席だったので、氏の視界に入るだろうから失礼のないようにと心して装って行ったのだけれど、氏の視線は終始後方の座席に行っていて、ついに最前列には焦点が合わないままであったことだ。