よんばば つれづれ

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豊川海軍工廠跡地見学会

今日8月7日は、豊川海軍工廠が大規模な爆撃を受けた日だ。工廠では最年少は国民学校の高等科13歳から、中学校、高等学校など学徒動員で駆り出された子供から大人まで5万人を超える人が働いていた。

この空襲で2500人余の人が犠牲となり、豊川市では毎年慰霊祭が行われている。私たち豊橋ユネスコ協会でこの夏この工廠の跡地見学を計画していたのだけれど、毎年この爆撃を受けた8月7日に跡地見学会が催されていることを知り、どうせならそれに皆で参加しようということになった。

跡地保存をすすめる会の方が中心になって、熱心に活動を続けた結果、やっと昨年秋に豊川の市議会が跡地の一部を公園にして保存をするという決定をした。そうしたこともあって今年は市が力を入れて広報活動したそうで、今日の参加者は過去最多だそうで、200人をゆうに超えていた。世の中の動きも何やら心配な雰囲気になってきているので、人々の関心も高くなっているのかもしれない。

東洋一を誇ったという豊川海軍工廠は約200ヘクタールの広さがあり、現在はその大半が自衛隊の豊川駐屯地や民間企業に利用されている。今も比較的当時をしのぶことのできる状態で残っているのは、名古屋大学太陽地球環境研究所豊川分室として使われていた区画だ。公園として残されることになったのは、そのまた一部分の3ヘクタールほどということである。

幸か不幸か名古屋大学には研究のための予算以外何も来なかったので、既設の建物を壊すことさえできず、結果的に、今日も私たちは「薬筒乾燥場」として使われていた当時の建物を見ることができた。しかしいっぽうで、防空壕はほとんど枯葉に埋まってしまい、ガイドの方に言われて意識的に見ればかろうじてそれと分かる程度の状態になっている。

自然発生的に生い茂った木々は全くと言っていいほど人の手が入っていないそうで、うっそうと茂っている。冬の見学会ではもっと奥まで案内できるけれど、夏場はマムシスズメバチの心配があるので、森の入り口までしか見られないとのことだった。

今日見学した区画の中央を貫く道路は、大型のトラックが余裕をもってすれ違うことができる幅で造られたそうで、大変立派なものだった。またその両側の側溝は40センチくらいの幅があり、深さも大変深く二層構造になっていて、相当な豪雨が降ったりしてもあふれる心配もない性能を持ち、蓋も現在普通に使われているものの2倍ほどの厚さがある頑丈なものだそうだ。

道路や建物に当時の科学や技術の粋が惜しげもなくつぎ込まれているのに比べ、落ち葉に隠れかけた防空壕のなんと頼りなげであったことか。それだけ人間の(末端の国民の)命が軽く扱われていたということだろう。


約70年前、この場所で、戦争に行った成人男性の代わりに、厳しい労働に励んでいた子どもや女学生たちを想像し、私はこみあげてくるものを感じ苦しかった。たまたまそんな時代に生まれ合わせてしまったばっかりに・・・。そして同じ時代の同じ場所に生まれ合わせても、正門のあった南方向に逃げた人はほとんど助からず、北方面に逃げた人は助かった人が多いとか。わずかな運命のいたずら。

私の父親もこの工廠で働いていて空襲にも遭ったのだけれど、大きな怪我をすることもなく助かったようだから、北方向に逃げたのだろうか。私の知る限りでは、父が自分から戦争当時のことを話すことはなかったようだ。今になると、もっと聞いておけばよかったと残念に思う。

昔、家族で戦争の話になることもあり、母はその工廠に父を訪ねていくとき、姉の手を引き兄を背に負ぶって機銃掃射に遭って恐ろしい思いをしたと話していた記憶がある。けれどもなにせ末っ子の私は幼かったので、あまりしっかり覚えていない。今度姉に会ったときには、そうした話を聞いてみようと思う。


今日もまた、平和な時代に生まれた幸せをしみじみと噛みしめる日となった。一緒に参加した若いメンバーが、「物がないのはそれはそれでまた今と違った良さがあるかも知れないけど、戦争だけは本当に嫌だと思う」と言っていた。少子高齢化で成熟成長の時代に入った日本は、物質的な豊かさという点では今後の見通しは暗いかもしれないけれど、平和は一人一人の努力で守っていくことができるはず!