よんばば つれづれ

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『悼む人』天童荒太著

10年以上前に『孤独の歌声』を読んで以来の天童さんの作品だ。直木賞受賞作でもありテーマの特異性もあって発表時話題になった。市民館の書棚に見つけ迷わず手に取った。

深い感動を覚えた。ぜひとも感想を記録したいとも思った。けれども感銘することと感想を文章にすることとは簡単に連動することではないようだ。この作品の良さをどう表せばいいのだろう。迷ううちに何日もが過ぎ、今日改めて手に取ってプロローグを読んだら、またまた心が震えてしまった。


主人公の静人は生きるのがつらそうな人間だ。マスコミにあおられ大仰に同情する一方で、どんどん悲劇を忘れ去っていく忙しい世の中。彼はそうした流されやすい人々に代わり、まるで懺悔のために生きているようだ。なぜそんなに苦しい生き方をするの?と問えば、きっと彼は「こうでもしなければ苦しくて生きていられない」と言うだろう。なにしろ亡くなった人を忘れる自分が許せないのだから。

毎日毎日理不尽に人生を断ち切られる人々がいる。病気で事故で事件で。遺族を悲しみの淵に落とす人もあれば、誰にも知られずに死んでいく人もいる。亡くなった人がどんな人でどんな事情で亡くなったとしても、主人公静人はそれらには一切関係なくただひたすら亡くなった人を悼んで歩く。「誰に愛され、誰を愛し、誰に感謝された人か」だけを問いながら。そしてひとつひとつの死を自分の中に刻み付けるようにする。すべてを覚えきることはできないので、ノートに記し読み返し、忘れない努力を続ける。

不審者として通報され警察に保護されたり、遺族に文句を言われたりもする。もちろん感謝されることもあるけれど。そんなことをして何になるのかと問えば、何にもならないだろう。死んだ人が生き返るわけではないし、かえって心を乱されたと怒る遺族もいるのだから。それでも彼はそうしないではいられないのだ。

静人の母は末期がんである。自宅で緩和療法のみ受け入れ、それまで通り町内会の仕事や老人施設でのボランティアをできる限り続けながら穏やかに生を閉じたいと考える。静人の行為を理解しているが、やはり自分の意識のあるうちに静人に帰ってきてほしいと思っている。生きることがへたな息子や夫のことが気にかかる。兄の変わった行動のため恋人との縁談が壊れた娘はすでに身ごもっており、一人で産んで育てる決心をしているようだ。これからますます母の援助を必要とするのに、支えてやれないことも心残り。

この母が素晴らしい。繊細過ぎて生きるのが不器用な夫と息子のそばで、明るくバイタリティがあって周囲の人を笑わせる、癒しの存在として描かれている。自分の死を目前にしてこんなにも前向きに生きられるものだろうかとも思うけれど、彼女は夫を息子を娘を守らなければ・・・と思うから強くなれるのだろう。でもその彼女も夫に娘に支えられている。家族の素晴らしさ。



あの大震災から間もなく3年。直後は誰もが大変な衝撃を感じたと思うが、日に日に悲しみや痛みは薄れていく。何かをしなければ、という気持ちも弱まっていく。いまだに不自由な生活を強いられている人も多く、まして家族を失った方の悲しみが癒えるはずもないのに。そうした状況に後ろめたさを感じながらも、大部分の人は「普通の」日常に流されてしまっていく。繊細過ぎては生きていけないのだ。

ただ、繊細過ぎたり、正直すぎたり、不器用すぎたりして生きにくい人がいることを忘れないようにしたい。亡くなる人を全て忘れずにいることはできないし、やはり「死」は「無」であり遅かれ早かれ「忘れられる」ことではあるだろう。大切なのはいかに生きるかということなのだと思う。どれだけ他者に想像力を働かせて、思いやりを持って生きられるか、そうしたことを考えさせてくれる作品なのではないかと思った。