よんばば つれづれ

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静かで温かな感動に満たされる『笑い三年、泣き三月。』木内昇著

焼け跡に闇市の立つ混乱の昭和21年から、世の中が徐々に落ち着き、貪欲に復興していく昭和25年までの時代を背景に、浅草でエロと笑いの世界に生きる人々の物語だ。

 

岡部善造は十三の歳に貧しい農家の親元を離れ、万歳芸の世界に飛び込んで三十年余を過ごしてきたのだが、なんとか笑いの世界で一旗揚げたいと一座を出奔し、復員列車もかくやというほどのぎゅう詰めの列車に揺られ上野に着く。

 

ところがそこは憧れた東京とは似ても似つかぬ、埃臭いうえビルらしきものは崩れかけた郵便局だけで、あとは幌掛けの露店がひしめく場所だった。あっけにとられる善造の前に、白粉を塗りたくり(実はDDTを浴びている)妙に大人びた口を利く子供が現れる。

 

物語の二本柱となる二人の、印象的な出会いのシーンだ。栄養状態が悪く七、八歳かと思った少年は十一歳で、空襲で両親と兄をなくした「ノガミ(上野)」の浮浪児なのだった。武雄と名乗る少年は、浅草に行きたいという善造に、自分に案内させた方が安心ですよと言って同行する。

 

こうして二人はエンコ(浅草のこと。浅草公園の公園を逆さに読んだもの)に向かい、かつては映画監督を目指し撮影所で使い走りをしていた復員兵の鹿内光秀や、その知人で助監督をしていたという杉浦保と出会う。

 

浅草で杉浦が始める小さな劇場を手伝う代わりに、三人はそこに住まわせてもらうことになる。その後採用したショーの踊り子たちが劇場の部屋を使うことになり、三人はねぐらを失いかけるが、踊り子の一人で元財閥の令嬢を自称する「ふう子」が、自分のアパートの一間を彼らに提供すると申し出る。

 

この個性的で魅力的な五人を中心に、戦後の社会や芸能のニュースを織り込みながら、彼らの日々の物語が紡がれる。人物描写やそれぞれの関係の描き方もうまいが、当時の社会の出来事や、懐かしい歌手や漫才コンビの名前が出てきて、そうしたことを知る世代は、さらに興味深く読めそうだ。

 

けれどもなんと言っても心を打つのは、善造やふう子の無償の愛の姿だろう。野心を持って上野に着いたはずの善造なのに、いつのまにかそんなことより「坊ちゃん(武雄のことを善造はこう呼ぶ)」を二十歳までちゃんと守ってやりたいという気持ちが勝るようになっている。なんとか子供らしく屈託なく笑わせたいと願っている。

 

元財閥の令嬢だと言いながら、感情が激すると何を言っているか分からないほどの田舎言葉が出るふう子は、自分のものを削っても人を喜ばせたい。でも、踊りに関しては頑として自説を曲げようとせず、杉浦の色っぽい踊り方をという懇願を彼女だけは受け入れない。仲間に美味しい物を食べさせるために春を売っても、踊りにかけるプライドでは決して譲ろうとしない。

 

戦争中や、終戦直後の混乱時のほうがむしろ巷の人々は親切で、世の中が落ち着くにしたがって人心に優しさがなくなっていくのを感じる部分や、男女のことについて、「睦言がうっすら聞こえる分には問題はないが、決して見てしまってはいけない。想像する時間が人を育て、感動を大きくする」という善造の言葉には、現代の不幸の深さを思わずにいられない。

 

アパートの向かいの部屋に住む大森によってカメラというものを知った武雄は、写真の世界にのめりこんでいく。大森からお古のカメラをもらい、フィルムの入っていないカメラのファインダーを覗くだけで幸せに浸っていた。やがて仕事で金が入ったからと、大森は10枚撮りのフィルムを入れてくれ、武雄はそのフィルムの入ったカメラが「重くなった」と感じる。嬉しくてたまらないのに、あまりにもったいなくて撮ることができない・・・。このあたりはデジタルでいくらでも撮れるようになった現代の、幸福と不幸を同時に感じさせられる。

 

このまま武雄が大人になるまで他人同士の奇妙な共同生活が続くかと思われたが、ある日、善造のかつての万歳の相方であるとんちゃんが現れる。一旗揚げたいと思う善造の気持ちを尊重して、遠くから見守っていたのだった。どうやら夢はかないそうもないと判断し、もう一度一緒にのんびり田舎を回ろうと連れ戻しに来たのだ。

 

それぞれがそれぞれの道を歩き出すラスト。気持ちの良い涙があふれ、温かい思いに心が満たされた。素朴で愚直な善造。醜女だけれど人間の良い所を見ようとし、人を喜ばせることに幸せを感じるふう子。時代の流れの中で、決してスポットライトを浴びる存在ではないかもしれないけれど、こういう人たちが、このままならない世界でも、「人生ってまんざらでもないな」と思わせてくれる存在なのではないか。

 

 

本を読み終えた昨日の夕方、ニュースを見ようとテレビをつけたら、まだ国会中継が放送されていた。国民として国会中継は見なければとは思うが、気分が悪くなっていつもすぐ切ってしまう。案の定、その時も沖縄の県民投票の結果についての共産党小池氏の質問に、首相が不毛なはぐらかすだけの答弁を延々と繰り返していた。このくだらない討論(とさえも言えないが)のために、一日何億円もの税金が使われるのかと思うと、本当に情けなく悲しい。

 

この物語の登場人物たちは、一般的に言えば、みな人生における勝負で勝てなかった人たちだけれど、「最高に勝ち進んだ」と思われる人たちが、このテレビに映し出されている人たちであるならば、勝つことにどれほどの意味があろう。この物語に喜びをもらえる人間であって良かったと思う(勝ち組の人はこれを負け惜しみと言うだろうが)。

 

 

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