よんばば つれづれ

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古い新聞の投稿記事

年末ということも影響したのかも知れないが、このところまた無性に片付けたい気持ちが高じてしまい、一週間ほど物の処分にいそしんでいた。今回は主に写真と紙の資料類だ。

 

写真については、以前にも昔の大きくて厚いアルバムに貼っていたものを、はがしたりパソコンに取り込んだりして片付けたが、今回はそれ以降のポケット式アルバムを整理した。子供たちにはすでにそれぞれに作ったアルバムを渡したつもりでいたが、まだ残っているものもあり、今度来たら渡せるように彼らの分も分類整理した。

 

次に紙媒体の資料。公文式の教室をしていた時の、約十年分の教室だよりから始めた。当時はまだパソコンはおろかワープロもなかったので、全て手書きだ。自分なりに精一杯心を込めて作っていたので、なかなか処分できなかったが、今回、特に残したいものだけ写真に撮ってパソコンに格納し、100枚を超える原本は捨てることにした。

 

そうして残っている様々な資料を片付けていくと、黄ばんだ古い新聞が何枚も出てきた。主に、投稿した自分の文章が掲載されたものだ。朝日新聞なら「声」にあたる読者の投稿欄が多いが、弘前時代に「ひととき」欄に掲載されたものがあって、この文章は結構気に入っていたものなので、自分用の備忘録としてここに残そうと思う。

 

 

 期末テストが終わり、息子の高校のねぷた造りが始まった。授業の前後を使っての製作であるため、中には始発電車も動き出さない時間に家を出て、数十キロの道のりを自転車で登校するつわものもいるという。夜は夜で夜中まで見回りの先生の目を盗んで製作に打ち込む者もあり、当然の帰結として、授業中の生徒たちは睡魔との戦いに忙しくなる。降伏を決め込んでいる者も少なくないらしい。

 ねぷたをやめれば進学率がだいぶ向上する、という意見も聞くけれど、私はこの学校の、生徒を信じる自由な校風が好きだ。私もこの地に育っていたら、きっとこの学校に進んだだろう。祭り好きで、いまひとつ子供を卒業しきれない私は、息子から聞く話にワクワクし、ねぷたの興奮にどこか一歩距離を置く彼に、じれったささえ感じてしまう。

 雪が積もることが珍しい地に生まれ育った私は、津軽の冬の厳しい雪景色の美しさに心を打たれる。百花がいちどきに咲き競う春は生活者として冬を越して迎えてみると、喜びにもいっそう深いものがある。しかしそれらの季節にも増して、連日のようにどこかの神社の宵宮を告げる花火の響く六月から、市内のそこここに大型ねぷたを製作する「ねぷた小屋」が見られるようになる七月は、津軽が一番活気に満ちみちているようで、私の最も好きな季節である。

 昨年も一昨年も息子たちのねぷたの運行日と仕事がぶつかり、見物することができなかった。三年生の今年こそは、と祈る思いでいる。弘前高校の若者たち、青春のエネルギーをぶつけ、大いにねぷに燃えて下さい。ただし、学校の信頼にこたえ、後輩たちに楽しい伝統が長く受け継がれるよう、羽目ははずしすぎないで・・・。

                          1992年7月14日 朝日新聞「ひととき」

 

この時からはや26年もたってしまい、息子の子供がすでに高校2年生だ。長野県に住んでいるので父親と同じ高校には行けなかったが、弘前高校では、幸いねぷた運行は無事に続いているようだ。

 

 

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弘前市の目抜き通り土手町を運行する、息子たちの弘高ねぷた