よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

月100時間の残業で考えない人を育てる

セネシオさん(id:cenecio)がブックマークコメントで、「子孫のことを思いデモ・抗議に行ってるのに。悲しくなる。一番悪いのは何も伝えないマスコミかな」ということで、関連するサイトのリンクを貼ってくださったので、見てみた。

https://twitter.com/wanpakutenshi/status/1071370027532640257

 

私の前回のエントリの「胸の痛み」も、ほとんど次世代の人たちへの申し訳なさから来るもので、彼らのために未来が少しでも良くなるよう「何かしなければ・・・」と、なかば脅迫観念のような思いが頭の片隅を占めている。セネシオさんの悲しみがよく分る。

 

今日、見守り隊の会議で小学校に行った。会長や校長の定例の挨拶や教頭先生からの最近の学校の様子の報告のあと、これも毎月のことだけれど、出席者一人ひとりに日ごろ子供たちについて感じていることについての発言が求められる。

 

私は「特にありません」のときが多いのだが、観察の細かい方は、下校時の子供たちのことをこまごま注意し、学校でも指導してほしいと仰る。確かに車道に出ることは危ないし、道に落ちているものなどに気をとられてのんびり帰れば、あとのほうで見守りに立っている方々は待ちくたびれる。指摘されること自体はもっともなことなのだ。

 

SPYBOYさん(id:SPYBOY)も今日のブログで書いていらっしゃるが、「子供は人の言うことは聞かないのが普通」だ。でも、そう思っている大人は案外少ないのではないかと思う。「子供は大人の言うことを聞くべきだ」、あるいは「大人は子供に言うことを聞かせられなければいけない」と思っている。少なくとも、教師たちはそうしなければ責任問題になると思い込んでいるだろうし、親や地域住民の多くも、学校にそれを求めている。

 

だからこうした場で、児童のこれこれの行為が危険だとか、周囲に迷惑をかけているなどと指摘されると、すわ、一大事とばかり、次の日あたりは子供たちに厳重注意となるだろう。

 

こうして一挙手一投足も周囲の大人に「見守られ」、大人社会にとって都合の良い子が育てられていく。大人社会にとって都合の良い子とは、すなわち考えない子なのだ。 

 

私の住む地域は交通事故の心配も多く、大型商業施設も集まっていて、子供たちには危険や誘惑の多いところだ。今年の春、新潟で、大人の見守りがなくなった下校の道で、小学生の女の子が悲惨な事件の犠牲になった事件もあった。だから見守り活動には大切な意味があるとは思うけれど、案ずるあまりに過干渉になってしまうことにも注意が必要だと思う。

 

けれども、会議の場でそうした発言をすれば、おそらく空気を読まない人、あるいは無責任な人という目で見られてしまうだろう。そこまで覚悟する度胸が私にはなく、心の中でちょっと違うんじゃ・・・と思いながらいつも黙している。

 

社会をよりよくするためには、なんと言っても教育が大切で、そのためには国の教育の方針が変わり、学校現場が変わる必要があるが、本当に多くの大人たちが、自分の頭で考え、大人に対してもおかしいと思うことはおかしいと発言するような子供になってほしいと思っているか、非常に疑問だ。だからやっぱり・・・と堂々巡りに陥ってしまう。

 

 

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今日のアドベントカレンダーのマスコット。

上からのアングルなのでチェロのように見えるけど、

コントラバスを弾く白くまくん。せめて写真だけでも明るく可愛くね。