よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

ラマダン明けのイベントに招待いただいて

またまた貴重な異文化体験をすることができた。日本語教室の生徒さんに、ラマダン明けの食事会にご招待いただき参加してきた。

 

モスクの建物は、もとはバイクのお店だったそうだ。郊外とはいえかなり大きな建物なので、買取の値段はそれなりに大変だっただろうと思うが、信者の方たちでお金を出し合って購入したらしい。

 

夕方6時半からの予定のウェルカムスピーチは、少々遅れて始まった。スピーカーの女性(会場はもちろん男女別々で、私たちの会場には女性と子供だけ)が話し始めても、子供たちも久しぶりに会ったらしき人たちも、別に静かになるでもなく、それまでと大して変わらないゆるくのんびりした雰囲気のまま。静かにしなきゃ・・・と思っているのは日本人ばかりのようだった。

 

プロジェクターも使って、イスラム教やラマダンなどいろいろ紹介してくれたが、あちこちでざわざわ声のする環境では私はほとんど聞き取れなくなってしまうので、あまりよく分らなかった。まあ、そうしたことはその気になればインターネットで調べられるしと思い、ひたすら雰囲気を楽しんだ。

 

ゼロ歳の赤ちゃんから、幼児・小学生・中学生と、さまざまな年齢の子供たちがいて、活発に動き回っている子もいるが、総じて大人は子供を自由にさせていて、あまり叱っている姿は見ない。小さな子が扇風機をいじったりしていると、いつの間にか少し大きい子が来て注意を他へ向けたりする。

 

日本語教室の時にはいつもママに抱っこされていて離れられない赤ちゃんが、ママのそばを離れてヨチヨチと歩き回る。ママが他の人のところへ行ってしまっても平気だ。よその大人に抱っこしてもらったり、よそのお兄ちゃんに遊んでもらったりしている。日本語教室でママがちょっと離れると泣いてしまう彼の楽しそうな表情は、まるで「いつもはアウェイだから心細いけど、今日はホームだからへっちゃらさ!」と言っているように見えた。

 

ウェルカムスピーチとプロジェクターでの紹介が終わると、いよいよ食事会。床に様々な料理が並ぶ。これはインドンネシア、これはパキスタン・・・などと教えてくれる。日本語教室で私が担当しているRさんは、自分が作ってきた春巻きに似た料理(名前を教えてもらったのに忘れてしまった)を私たちの皿に2本も3本も入れてくれる。

 

いただいていたスケジュール表には19:00断食明けの食事、19:15礼拝、となっていたので、私はてっきり15分間なら簡単な食事なのだろうと思っていたのだけれど、ムスリムの人たちがお祈りをする間、どうぞ食べていてくださいねと言ってくださって、食べきれないほどの料理があった。

 

時間は日本のようにきっちり守らないし、子供の躾もとても自由に見えるけれど、だからといって特別行儀が悪かったり困らせる子もいないし、全体的にのどかな空気が流れていてとても心地よかった。

 

戒律の厳しい宗教に疑問を感じる点もないではないが、家庭と学校・職場のほかにこうした場があって、よその大人とも知り合い世話をされて育つ経験は、とても良いことではないかと感じた。大人は信頼するにたる存在だと思って育つのではないだろうか。親にとっても、しがみついてくる子供から解放され、ゆったりと大人同士の交流の時間が持てるのは、小さな子を育てている時期は貴重だろう。まして来日間もない人なら、言葉も分からず文化習慣も違う土地で、こういう場があったらどんなに救われるだろう。

 

日本にも昔はこういう場として地域社会が機能していたのだろうが、現代はそれを失って、それに代わるものはまだ生み出されていないような気がする。小さな家庭の中に押し込められ、自己責任を突き付けられて、誰もが窒息しそうになっているのではないか。それが家庭内の虐待や暴力を生む一因になっているのではないだろうか・・・などと考えさせられた。

 

古来宗教が憎しみ合いを生み戦争を生んできているという面もあり、日本人の宗教に対してのいい加減さは良い所でもあると思っているが、今日の体験で、もっと別な面でのいい加減さ、ゆるやかさを学んでもいいのではないかと思った。特に、大人にとっての「良い子」の枠にはめようとする教育とか、煩わしさを嫌って近隣などの付き合いをしたがらない点など、異文化体験をすることで、違う視点を持てるのではないかと感じた。

 

 

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お祈り中

 

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モスクの階段の壁