よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

赤ちゃんは自分の意志で生まれてくるのに、人生の最後は選べない?

こんなニュースを見つけた。自らの意思で飲食せずに死を早めようとする人たちがいるのだそうだ。記事には終末期のがん患者が多いと書かれている。「自発的に飲食をやめる」という英語(voluntarily stopping eating and drinking)の略から「VSED」と呼ばれているという。

 

www.asahi.com

 

源氏物語』を読んでいると(現代語訳です)、この「VSED」による死ではないかと思われるシーンに一度ならず遭遇する。柏木や紫の上などはこれではないかと思う。周囲のものたちがせめて口当たりの良いものだけでもと勧めるのに、本人にもう生きようとする欲がなく、水さえ口にしようとしない。そしてあっけなく命の灯を消してしまう。

 

以前から長生きし過ぎそうなことを恐れている私は、できれば自分で良い頃合いをはかって、この消え方をしたいものだと思っているのだが、食い意地の張っている私はとうていこのような潔い行動はとれそうにない。そのころまでに日本でも法律が改正されるといいのだけれど。超高齢化で老人だらけになれば、そういう方向に行くだろうか。

 

赤ちゃんは、自然に任せれば予定日など関係なく、自分でちょうど良いころ合いを決めて生まれてくる。よく「赤ちゃんを産む」と言うけれど、本当は赤ちゃんは「生まれてくる」のであって、お母さんや医療は手助けするだけだ。

 

ならば、人生の終幕も自分で決められたらいいのにと思う。現実的なお金のことなども、いくつまで生きるのかが決まれば計画が立てやすい。そう思う一方で、いろいろ不都合があっても、やはり未来は分からず、寿命は自分では何ともできないところに意味があるのかとも思う。

 

だいたい、自分の意志で生まれたといっても、その時の記憶など普通はないわけで、いったい自分がなぜあの日あの時を選んだのかなど分からないまま、人は人生を生きていくのだ。

 

自分という生物の出現も、消滅も、なんだか分からずコントロールもできないが、少なくともその間の「生きている」期間は自分で選び、考え、切り開いていくことができるし、『知の逆転』のジャレドさんの言うように、そもそも人生に意味を求めすぎるのも問題だ。

 

私が長生きしすぎることを恐れるのも、格好よく死にたいという欲があるからだ。生物として平凡に生を全うすればよいと達観することができれば、こうした悩みからも解放される。

 

 

『知の逆転』について興味がおありなら、過去の拙ブログを読んでみてください。今となっては評価が大きく変わってしまった人の話題も出てきますが・・・。

yonnbaba.hatenablog.com

 

 

f:id:yonnbaba:20171217203737j:plain

のんびり、自然体でね。