よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

吉野せいさんの厳しさに触れたくて『洟をたらした神』『梨花』を読む

今年もあと半月ほどになってしまった。もう本を読んでいる時ではないと思い、先日市民館に本を返しに行った折も、あればつい読んでしまうから借りずに帰ってきた。

 

それなのに、なぜか急に吉野せいさんのキリリとした文章に触れたくなって、「ちくま文学の森」を取り出した。

 

『洟をたらした神』は第二巻の「心洗われる話」に収められている。かぞえ六つのノボルの話である。荒れ地を開墾して細々と農業を営む親たちは、子供にかけてやる暇も金も持たない。けなげなことに子供のほうも、親にねだるということがない。コマも竹とんぼも、手近な材料でみごとに自分でこしらえてしまうのだ。

 

それなのに、そんなノボルがある日母親に二銭をせがむ。周囲に急にはやり始めたヨーヨーが欲しいのだ。二銭あればキャベツ一個、大きな飴玉十個、茄子二十個、小鰯なら十五匹は買えると、家族に食べさせることもままならない母は考える。非情に徹して、ヨーヨーなんぞじきにすたれて詰まらぬと言い聞かすしかない。

 

極貧のなか肩を寄せ合い暮らす家族。ただ一度の息子の無心にも応えられず胸痛める母は、ノボルが奇跡のように格好の素材である松と出合うことで救われる。彼はそれを使って見事にヨーヨーを作り上げ、親子してその遊びに興じる幸福な場面で終わる。たった8ページ半の短い話ながら、強く読み手の心に残る。

 

 

梨花』は第三巻「幼かりし日々」のなかの一篇だ。友人である草野心平氏の名前も出てくる、自身の二女梨花を幼くして失った体験を綴ったものだ。

 

現代であれば難なく助かったであろう病なのだけれど、おそらくそれまでの栄養状態も良くはなかったであろうおさなごは、医者にかかることなど言うまでもなく、日々の仕事に追われる母に十分な看護さえしてもらえぬまま、あっけなく天に召されてしまう。貧しいがゆえ、小さな娘に十分なことができず失わなければならなかった母親の慟哭が、読むものに強烈な勢いで迫ってくる。

 

半世紀ほどの時を経て、のどかな時代に子育てをさせてもらえた幸運を感謝するばかりだ。けれども、豊かと思える現代でも、思いを紛争地帯に馳せれば、吉野せいさんのようなつらい思いを抱える母親たちがいるのだ。

 

読書などにかまけていないで、新年を迎える準備を進めなくてはとか、二年ぶりに帰省する息子家族とどう過ごそうかとか、そんなことに考えをめぐらしていられる自分は、ぬるま湯のなかで生きているような気さえする。

 

 

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