よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

無為は空であるという示唆

私のつまらないボヤキに、いろいろありがたい言葉をいただいた。単純なお天気屋の私は、ちょっとした要因や、あるいは何もなくても、周期的に落ち込んだりする。

 

今回も、考えてみれば恵まれているのだ。自分が深刻な病気であっても、あるいは家族の誰かが難しい病気であっても、虚しいなどとは言っていられない。息子たちが曲がりなりにもちゃんと暮らしていて、夫婦仲にも親子関係にも問題がないから、母としても祖母としてもまるでしゃしゃり出る幕はないけれど、それは幸せなことでもある。第一食べていくことに不安があったら、ぼやいている暇もないはずで・・・。

 

単身者世帯が増えている現代。今後ベーシックインカムなどで生活の基盤が保証されると、こういう考え方によっては少し恵まれた悩みが問題になってくるかもしれない。幸か不幸か自民が大勝してまた当分安倍政権が続くので、シャンパンタワーの下層にまで届くような税の再分配がなされる時代は当分来ないだろうけれど。

 

inuwanさん(id:inuwan33)のくださったコメントが、示唆に富んでいる気がした。

無為はネガティブな意味で使われることが多いですが、>自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと<という意味でもあるのです。
yonnbabaさんが無為に過ごしたと思っているのも、裏を返せばそれが自然な事だったのかもしれませんね。
その日はyonnbabaさんの心が空になっていたのでしょう。
空は大事なことで、器も空があって水をためられるのだし、部屋だって空があるから生活ができるのでしょう。
なんでもかんでも詰まっていると使い物になりませんよね。
何もしないで生きることに案外解があるのかもしれません。

 

無為は空でもあって、器も空だからこそ水をためられる。なんと深い境地だろうと思う。やはり富の再分配が理想的になされ、全ての人が労働の強制から解放されるような社会は、一人ひとりの人間の意識がかなりの高みに到達していないと、せっかく手にした自由の使い方を間違いかねない。

 

はたして人間は、そのような精神的高みに行きつけるのか。それとも、いつまでたっても私利私欲に振り回され、あくせくと憎みあったり殺しあったりし続ける生き物なのだろうか。

 

まずは私自身、無為を空と受け止め、より多くの水をためられる器になりたい。

 

 

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