よんばば つれづれ

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森絵都著『みかづき』はきわめて政治的な物語と読めた

これは、昭和36年の千葉県のとある小学校の用務員室に始まり、その用務員の孫が始めた、貧困家庭の子供を対象に無料で学習の援助をするNPOの話で終わる、およそ半世紀にわたる、教育にかかわるある家族の物語だ。

 

用務員の大島吾郎は、ある日学習についていけない男の子に泣きつかれ、放課後自分の用務員室で勉強を見てやることになる。吾郎さんに教わるとよくわかるという噂が広まり、じきに六畳一間がぎゅう詰めになるほど子供たちが集まるようになる。

 

そんな吾郎のところに、そうした子供たちの1人である蕗子の母、赤坂千明が訪ねてくる。自分が始めようと思っている学習塾を手伝ってほしいというのだ。

 

こうして吾郎と5歳年上の千明はともに補習のための塾を始め、血のつながらない蕗子と、千明の母頼子の四人は家族となる。時代の要請もあって塾はとんとん拍子に大きくなっていく。吾郎の血を引く娘も2人生まれる。

 

 

千明は戦前に国民学校教育勅語を叩き込まれ、鬼畜米英と叫んでいた教師が、戦後は同じ口で平和を唱え始めるのを見た体験から、学校や教育というものへの不信が骨の髄までしみ込んでいる。自分こそは新しい時代に、子供たちに自分の頭で考える習慣をつけ、真の生きる力を与えられる教育者になりたいと思う。

 

けれども、敗戦後の、理想に燃える民主主義教育から、独立を果たした昭和27年には学校教育法の改定で教科書の検定権が文部大臣の手に渡り、やがて日教組の弾圧が始まり、教育委員の公選制から任命制への変更などで文部省の権限が拡大していくのを見て、千明は教員になる気を失う。

 

そうして公教育とは別の場所で自らの信じる教育をしたいと考え、またこれからは必ず学校以外に知力をつける場所が求められる時代になると信じ、私塾に舵を切ったのだ。

 

始めのうちは日陰者のようだった塾も、国民の教育熱の高まりとともに急成長する。しかし大きくなればなったで、公教育や世間からの風当たりも強くなる。塾同士の争いも熾烈になる。教室を増やしどこまでも経営を広げていこうとする千明と、子供と丁寧に向かい合いたい吾郎とは徐々に溝ができていく。

 

 

私自身昭和59年から10年ほど塾をし、最後のあたり(平成の初め)は子供の数が激減する時代が迫り、「学習塾戦国時代の到来」と事務局からはしきりに危機意識をあおられた。そういう背景だからこそ、長男の大学進学を前にして、今後4年なり6年(大学院まで行く可能性があったので)仕送りを続けられるだけの生徒を確保し続けられるか不安になり、結局故郷に戻る(豊橋に幸い理系の国立大があった)という選択をした。

 

また、私の教室では経験しなかったが、塾の高進度の生徒が学校で教師の嫌がらせを受ける話などは、事務局員からよく聞かされたし、塾の一番の敵はライバルの他塾ではなく学校だとも言われた。事実せっかく頑張って続けてきた子が、中学生になると部活が大変で・・・と辞めていくことは少なくなかった。

 

こんなふうに、私も一時期教育産業の片隅に身を置いていたので、この物語に描かれた塾や学校をとりまく話題はとても興味深く読めた。

 

実在の塾の名前も出てきたり、ゆとり教育という名に隠れた国の本音や、規制緩和による非正規雇用の増加と格差拡大、海外で子供を学校に通わせた親の多くがびっくりするような、日本の公教育における家庭の高負担などの今日的な問題にも触れていて、ノンフィクションかと思うような迫真性もある。

 

こうした時代による教育の変化を背景に、その中での塾経営者としての戦い、家族や夫婦の葛藤などを紡ぐ460ページ余の長編である。概して激しい気性の大島家の女性たちに対し、男性たちはおっとりとおおらかだ。なかなか多彩な登場人物を描いているが、いささか深みには欠けるかもしれない。

 

人物の魅力よりも、塾を中心とした教育界をめぐる話が惹きつける。そしてもちろんその問題の根源である政治や文科省。出版されたのは1年前だが、ちょうど現在大きな問題になっている(総選挙で少しかすみ気味ではあるが)ことであり、私にとっては非常に面白く有益な読書となった。

 

 

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