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よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

申京淑(シン・ギョンスク)著『母をお願い』は、絶滅ちかい「おふくろ」の物語

「この小説のなかには私と、私の母親がいる。あなたと、あなたの母親がいる。そうして私たちは母というものの、途方もない大きさを、恐怖にも似た畏敬を持ってあらためて知るのである。」この本の帯に書かれた角田光代さんの言葉である。

 

この物語に描かれている「オンマ」は、貧しい家庭に生まれ学校にやってもらえなかったため文字が読めず、初潮も迎えないほど若いうちに嫁がされ、五人の子を産み、妻子を捨てて他の女のもとへ走りやがてまた妻のもとに戻ってくるような身勝手な夫に仕え、米びつにコメが一粒もなくなる恐怖と常に闘いながらも、子供たちに存分に食べさせようと献身的に頑張る、そんな母である。

 

自分が学びたくても学校に行けなかったため、「オンマ」は貧しい中でも自分の子供たちには必死で学問を付けようとする。子供たちはそれぞれ立派に育つが、母親がしてくれたこと、そして大人になってからもし続けてくれていること―訪ねてくるたび、キムチだの小豆粥だの自家製の味噌だのを山のように背負って届ける―を当たり前のように思っている。

 

それが、ある日突然その「オンマ」が失踪し、夫も子供たちも初めて気付く。彼女が生まれながらに「オンマ」であったわけではないという、当たり前のことに。そうして自分たちが、いかに彼女から多くのものを受け取っていたか、彼女を頼りにしていたかを思い知る。

 

残された者の思いが、章ごとに長女、長男、夫と視点を変えて綴られ、第四章では失踪した「オンマ」自身の独白の形となり、思いがけない告白(今風に言えば衝撃のカミングアウトだ)もされる。

 

そしてエピローグでは再び長女の視点に戻る。「オンマ」の行方は最後まで不明のままなのだけれど、エピローグの舞台は、物書きの長女が取材で訪れているバチカン市国の教会で、しかも最後の場面に描かれているのが、わが子の遺体を抱く聖母マリアであることが暗示的と言えるかも知れない。

 

この作品が世界各国で翻訳出版され、ベストセラーになっているというのだから、母という存在に対する思いは万国共通なのだろうか。

 

けれどもこの物語に描かれているような、自己犠牲に満ち献身的に家族に尽くす母親というのは、いまはもうかなり少ない。先日読み終えた『逝きし世の面影』で描かれていた日本が、滅んでしまった「文明」だったというのになぞらえれば、ここに描かれた母は、滅んでしまった「おふくろ(韓国語では何があたるのか?)」、もしくは滅びつつあるそれ、ではないかと思う。

 

20年後あるいは50年後かもしれないが、もしかしたらこのような物語は理解不能となり、とても共感を呼んでベストセラーになるなどということはあり得ないかも知れない。それが人間にとって進歩なのか、幸せなことなのかは分からないけれど・・・。

 

 

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