よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

女の生き方を考えさせる『笹の舟で海をわたる』角田光代著

男性の影の薄い物語である。主人公左織の夫、その弟、主人公の息子・・・と、男性登場人物も決して少ないわけではないのだが、なぜかみな存在感が薄い。

 

主人公左織は大学で文学を教える夫のもと、専業主婦として六十代まで生きて来た。義妹の風美子と、寡婦になった二人が一緒に暮らす家を探している場面から物語は始まる。左織がまだ結婚前だった22歳のときに銀座のデパートで買い物をしていると、同じくらいの年齢の華やかな雰囲気の女性に声を掛けられる。「小学生のとき、修善寺疎開してませんでしたか」と。それが風美子だった。

 

左織は全く彼女のことを覚えていないのだけれど、風美子のほうは当時の小さなエピソードまではっきり語る。疎開の記憶を意識的に封印しているような印象の左織は、彼女の話すことから、きれぎれに当時のできごとの断片を思い出す・・・。こうして左織と風美子の不思議な因縁の物語が紡がれていく。

 

場面は左織が見合いで学者の夫温彦(はるひこ)と出会うころにさかのぼり、水商売で男性を見る目が肥えている自分が見定めてあげると、強引に温彦と会う風美子。やがて彼女は温彦の弟潤司と結婚し、左織と風美子は義理の姉妹となる。

 

専業主婦になり一女一男の母となる左織。かたや定職に就くことの無い潤司の妻となった風美子は、料理で頭角を現し時流にも乗って、売れっ子料理研究家として新時代の女性となり奔放な生き方をしていく。

 

かつて当たり前の女の生き方とされた人生を、自分自身、何の疑問もなく選び歩んだ左織は、自分に強く反発する娘との確執や、大切にしていた息子さえ思うに任せないなどの試練に向き合い、風美子の自由な生き方に羨望や嫉妬を覚え始める。

 

背景として時々疎開先での地元の子供の疎開児童いじめや、疎開っ子どうしの陰湿ないじめの話が挿入され、そうした生活の中で死んだ子があり、それは病気であったのか、事故か、もしかしたらいじめが原因だったかも・・・と思わせる描写もあって、かすかにミステリー的な雰囲気も感じさせつつ話は進む。さらに、左織が疎開時のことをほとんど覚えていないのは、何かがあって意識的に記憶に蓋をしてきたのか、とも思わせる。

 

けれどもあくまでもこの作品の本題は、女の生き方や家族とは何かということだろう。親を亡くし、実の姉とも遺産相続のことでもめて疎遠になり、夫に先立たれ、自分の産んだ子供にも距離を感じるようになる左織。老境に立って、一番身近にいるのは血のつながりのない義妹ひとりだ。義弟も亡くなった現在、二人をつなぐものは何もなく、赤の他人に戻っても不思議ではない。

 

左織は、自分とは対照的な存在の風美子に、実際的に助けられてもきたし、無意識のうちに彼女を頼りにもしている。自由で明るく自立した生き方をする彼女に憧れるいっぽうで、彼女に振り回されることに嫌悪や憎しみを抱え続けてもいる。

 

疎開時代を入れると半世紀ほどの長い時間の物語を、その時々の実際の世相や事件を織り込みながら進む物語で、左織より十数年遅れて生きてきた私などにも、懐かしい部分が多々あった。

 

左織、風美子、そして左織に鋭く反発する娘として描かれる百々子という、3人の主だった女性が出てくる。古い時代の女性の典型である左織。同時代に育ちながら、戦争によって家も家族も失いみなしごとなった故か、因習にとらわれず自由に強く生きる風美子。そして戦後の自由な教育の申し子のような百々子。

 

男女の生き方に雛型があった時代は、制約はあっても、悩むことは少なかったかもしれない。自由になり選択肢が増えれば、かえって何を選べば良いのか途方に暮れ、「自分探し」で迷子になるものも出てくる。どう生きれば悔いがないのかは難しい問題だけれど、ただ、ひとつ言えることは、人のせいにしないこと、であろうか。そのためには、大変でも、面倒でも、やはり自分で選び自分で決める、これではないかと思う。

 

結婚も、仕事も、そのほかもろもろ、たくさんのことを中途で放り出してきて、地位も名誉も財産も(おまけに特技と言えるようなことも誇れる知識も)何もない私は、客観的に見れば人生の失敗者かも知れない。それでも、自分自身は、いつも自分で選び取り自分で決定してきたので、誰を恨むこともない自分の責任に帰結するこの人生を、そう悪くはない、と思っている。

 

 

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