よんばば つれづれ

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子供達の不幸と「自分探し」の不幸   (改題)

拝読している秋桜さんのブログで、子供の貧困のことを取り上げていた。(ふたりでお茶を「親はどこへ行った?」)「夜なべ仕事をしてわが身を粉にして働き、子を守ったおかあさんはどこへ行った」と秋桜さんは締めくくっている。


いま、格差が広がり貧困層が増えているというけれど、それだけではこうしたことに説明はつかない。戦後当分の間、「所得倍増」とか「日本列島改造」とかの勇ましい掛け声で高度経済成長の時代が始まるまでは、日本は今よりはるかに貧しかった。戦争で働き手を失った母子家庭も数多くあったはずだ。

私は一番の原因はやはり団塊の世代のしたこと、だと思っている。体制を批判するのは良いが、いっしょにそれまでの社会秩序や慣習までことごとく打ち壊してしまった。必死に働いて親は我が子を最高学府で学ばせたけれど、そのお返しは過激な学生運動で、理論武装した子に親は理屈で勝てなくなってしまった。それまでの親たちのように頭ごなしに親の権威でねじ伏せようにも、敗戦で自信を無くした大人はそれもできなかった。


やがて、ゲバ棒を捨ててダークスーツを着込み、企業戦士に見事に変身した団塊世代は、対等で友達のような、新しい夫婦、新しい親子モデルを創りだし、人数が多く魅力的なマーケットであるため社会も彼らの嗜好に沿って変化を続けた。


そうした自由な時代が続いた結果、この国に「家庭」というものが無くなってしまった。朝ごはんはそれぞれが出勤や登校の時間に合わせて、テーブルに来ては去って行く。夜も帰宅時間がバラバラなので、週末くらいしかみんなが顔を合わせて食べられない。いや、それすらあればいい方で、一緒に家の中にいながら、それぞれの部屋で勝手に好きなものを食べる家族さえあるらしい。

都会に大勢の人が集まり、住まいがどんどん職場から離れ、通勤時間が1時間半も2時間もかかれば一家団欒どころではないかもしれない。社会的な要請もあったし、それだからこそ経済大国にもなれた。けれども、人々がもっと真剣に家族との時間を求めていたら、昔のように家族そろって食卓を囲み、父親が「いただきます」と箸を取って初めて皆も食べ始める・・・というような文化を守ろうとしていたら、社会はどうなっていただろうか。


現代社会の抱える問題は様々な要素が絡んで発生したことで、簡単にこれが原因とかこうすれば解決できるといったものではない。けれども、子供の虐待にしろ育児放棄にしろ、私には「自分さがし」時代が生み出した不幸のような気がしてならない。

かつては性別役割モデルや世代モデルが厳然と存在し、父親になれば父親らしく、母親になれば母親らしくその役割を演じ、「50歳の美魔女」など存在するはずもなかった。「それらしく」なければ周囲の人が眉を顰め、時には後ろ指をさされたりした。

そうした時代が良かったとは言わない。戻るものでもない。ただ、そうした「役割を演じる」義務から解放されたのと引き換えに、私たちは新たに今の時代の息苦しさや生きにくさを抱え込んでしまったのではないだろうか。

しっかりとしたロールモデルがあった時代には、人々は考えなくても30なら30らしく、40なら40らしく落ち着いて行った(それらしく見えた)。ところが自分の頭で考える習慣が身に付かないまま、ロールモデルは消え、何でもありの自由奔放な社会になってしまった。おまけに「個性の尊重」という美辞のもと、唯一無二の自分には大変な価値があり、意義のある生き方を、などと教育され、さらに親の叶えられなかった夢まで期待され、繊細な子は引きこもったりニートになったりしている。

結婚しても型にはまる義務のない夫や妻は自分の自由を求め続け、相手の存在や、まして手がかかって思うようにならない子供は鬱陶しく思えてくる。離婚したり、子供をほったらかしても「自分さがし」を続けようとする。


特効薬や頓服はないけれど、子供達の置かれた不幸な状態は、このまま放置してよい問題ではない。政治や行政はどんどん対症療法を行いながら、根本的にこの国にもう一度しっかりした家庭を築くためにはどうすれば良いか考えてほしい。まして労働市場で女性の活躍を期待するのなら、雇用の在り方や保育、教育、職住接近など、バランスの取れたワークとライフのための施策が肝要だ。


100軒の家の灯りがあれば、その下には100の幸せの在り方がある。父親の仕事の億単位の取引が決まって、一流シェフのケータリングサービスで祝っている家庭もあるかも知れない。子供がウン千万の契約金でプロ野球入団が決まって、母親が腕を振るった料理でパーティーをしている家庭もあるかも知れない。スーパーの夕方の値引きシールが貼られるのを待って買ったコロッケを、父と子供で食べている家庭もあるかも知れない。「今日ね学校から帰る時、アスファルトの割れ目で咲いてるスミレを見つけたんだよ」「それは良かったなぁ」なんて会話をしながら・・・。

本来の唯一無二とは、そんな幸福の見つけかたの差異だったりするのではないだろうか。生まれながらに不公平は存在するし、努力とは関係なく運不運もあるのが人生だ。子は親を選べないし、親もまたどうすることもできない条件のもとに生きている。自分の頭で考えて、与えられた環境の下で最善を尽くす。悪条件であっても、その中からささやかな喜びを見出す。そういう力を付けることが必要だと思う。同じになろうとしても違ってしまう、それが個性で、やいのやいのと育てるものではないのではないか。

個人にできることは、そんな当たり前のことを再確認し、まずは今ある環境の中で無理せず生きる。そしてちょっとだけ周りにも目をやる。困っていそうな人がいたら声を掛けてみる。もしも世の中が「これやあれやこんなものもないと幸せとは言えないよ」と言っていても、「ほんとにそう?」と一呼吸入れてみる習慣をつける。「私はこれもあれもなくても平気」と、気づくかもしれない。



なんだか当初の問題とかけ離れたことを言っているようだ。でも、現代は子供も大変なんだけれど、子育てしている親御さんたちも本当に難しい時代だと思う。親が幸せであれば、そもそも可愛いわが子を虐待などするはずがないのだから。苦しい高齢者もいるだろうけれど、それでも現代の高齢者は恵まれていると思う。豊かな年金で、夫婦で旅行グルメ三昧などという人もよくテレビで見かける。こんなタガのはずれたような世の中にしてしまった責任は、私達いい年をした大人どもに大いに責任があるのだから、自分の残りの人生をエンジョイしているだけでは情けない。政治に要求もしながら、なんとか社会で自分の演じられる役割を見つけないといけないのではないかと思う。