よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

命の尊厳、重さ軽さ

広大な宇宙に比べたら、ひとりの人間は実にちっぽけな存在だ。けれども、その小さな存在に割り振られる運命の違いは、あまりに理不尽で不公平であることが多い。


妻と幼い二人の娘を残して死なねばならなかった後藤さんは、どんなに無念だったことだろう。



昨日ドキュメンタリー映画『SAYAMAみえない手錠をはずすまで』を見た。1963年埼玉県狭山市で起きた女子高校生誘拐殺人事件で犯人とされ、32年間の獄中生活を送ることになった石川一雄さんとその奥様の生活を追った記録映画だ。

ここにもまた、あまりに苛酷な運命を負わされた人がいる。石川さんは冤罪事件以前に、「被差別部落に生まれる」という宿命をすでにして負わされていた。

映画は冤罪をでっち上げた警察や、何十年にもわたる再審請求や証拠品の開示要求を無視し続ける検察などを強く糾弾するでもなく、意外なほど淡々とご夫妻の日常を描いている。

石川さんのお兄さん夫婦も登場し、お兄さんの語り口調はいっそ明るいとすら言えるものだし、お二人のシーンは時間的にも短いのだけれど、このご夫婦の上に流れた時間もさぞや大変なものであったろうと思われる。とりわけ、犯人の兄とされる人のもとに嫁いだウメ子さんの「遠い昔のこと、みんな忘れた」という言葉の深さ。その言葉にたどり着くまでの二人のご苦労や絆を思う。


1月25日に、やっと「東京高検 狭山事件の全証拠リスト開示」というニュースが流れた。でも、まだ肝心な脅迫状の葉書を始め44点は未開示だという。冤罪でないのならなぜその葉書で筆跡鑑定をしないのだろうか。そもそも当時の石川さんはその葉書を書くことはほとんど不可能だった(貧しかった彼は学校に通えず、読み書きがあまりできない状態だった)。1日も早く石川さんの再審理がなされ、無罪の判決を勝ち取られることを祈らずにはいられない。



ひとりの人間がどう頑張ったところでできることは知れている。何事かを成したり、取り立てて自分を探したりなぞせずとも良い、と思う。若い頃にはさっぱり分からなかった宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に描かれる、「ほめられもせず、苦にもされない」ような生き方の価値が、今は痛いほど理解できる。

けれども、悪を為さず、賞も求めず、ただ善良に生きていても苛酷な運命を与えられる人がい、いっぽう生まれながらにぬくぬくと日の当たる場所にいる人もいる。「その間にある違いはなんなのですか」と、神に、仏に、問うてみたい。



今の私は、ただ異国の地で野蛮な力に命を奪われた方たちのご冥福を祈ることしかできない。

合掌。