以前ゑぽむさんにお教えいただいた本。内田百閒著『ノラや』を読んだ。
わたくしごときが百閒先生と競ったとてせんないことなのですが、改めて筆力の違いを思い知らされた。百閒先生はノラと1年半しか一緒に暮らしていないのに、どうしてこんなにノラの愛らしさを細やかに表現できるのか。
しかもこの本の最初の方では百閒先生はまだ猫を飼っておらず、先生の家の庭に入り込んでくる猫たちに対してそれはそれは冷淡である。したがって特に猫好きなどでないことは明らかだ。むしろ嫌いなようにすら感じる。
それが、野良の母猫に連れられて庭に現れた仔猫を、まるで「ではこの子をよろしく」と言わんばかりに母猫から託された気になって、ノラとの暮らしが始まる。初めは外猫に餌だけやるといった感じから、お勝手の入り口に寝床の箱を与え、やがて自分の布団で寝かすまでになる。
世話をすることで、厄介ごとをもたらされることで、普通名詞の猫が自分だけの特別な猫になっていく。このあたりの気持ちの動きがとてもうまく捉えられている。そう、大して好きと思ってもいないのに、飼うと、はまるのだ、猫は。
そうして晩酌の膳にお行儀よくお相伴して、ヒラメの刺身や寿司の卵焼きなどが好物になる。風呂の蓋の上が温かくて気に入りの場所になると、専用の座布団なんぞも敷いてもらって寝る。
そうして1年余を暮らした春のある日(いや、先生ははっきりとその日にちも状況もご記憶なのだけれど)、フラッといつもの散歩に行くようにして出かけたきり、ノラは消えてしまうのだ。
そのあとの先生の嘆きよう!
ノラが寝ていた姿を思い出して辛いからとずっと風呂にも入らない。ノラが好きだった卵を見るのが辛いからと、寿司もとらなくなってしまう。白身の刺身も注文しない。お寿司屋さんや魚屋さんは、とんだことでお得意さんを失ってお気の毒な限りだけれど、百閒先生はロクに物も食べられず寝られず、悲嘆から死んでしまいかねないほどの嘆きようだ。
ノラを探す新聞広告を出し、チラシ折り込みを繰り返し、親切に知らせてくれる人はあれどもみな似て非なる猫ばかり・・・。
ノラについて書いた「ノラよ」の作品は、読み返すのも辛いからと書いたそのままで編集者に預けたのだそうだけれど、百閒先生の血さえ吐きそうな悲しみが表われ、けれども自己陶酔に陥った嫌悪を読み手に抱かせない書き振りで、さすがと思わせる。
私はドリームと18年、オーガストとは21年も一緒に暮らしているが、彼女たちの魅力を百分の一も伝えられない。オーガストはノラと同じちょっと短くて先っぽがかぎ型に曲がった尻尾を持つ猫なのだけれど、凡人に飼われたばっかりに、小説の魅力的なヒロインにしてやれなくてすまない!ドリームもそれは性格美人の愛くるしい猫なのだけれども、後世まで名を残してやることができずすまない!
さすが一流の書き手はすごいものだと感じ入った。
性格美人だって、失礼ね。
りっぱに正統派美人女優が務まると思うんだけど・・・。 byドリーム