よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

体罰と戦争は似ている

子育ての支援に関係するNPO団体の主催する講演会に参加した。

 

講師森田ゆり氏プロフィール:エンパワメント・センター主宰。元立命館大学客員教授。米国と日本で、多様性人権啓発、子ども・女性への虐待防止専門職の養成に30年以上携わる。第57回保険文化賞受賞。「子どもと暴力」「しつけと体罰」など日英文著書多数。

 

演題は「子どもの生きるちからとしての人権」

 

「人権」というととかく「3K」と嫌われがち。「かたい」、「くらい」、「きれいごと」。でも本当はやわらかく、まるいもの。そして人権は道具として使うもの。人権は人のちから。日本の手話では、「人権」を人という漢字を体の前で書いてから二の腕に力こぶを描いて見せる。

 

生きる力としての人権には三つの要素がある。安心、自信、自由。

安心は、子どもをまるごと肯定する。

自信は、人より優れたことにではなく、ただ自分として存在することそのものに自信を持たせる。

自由は、子どもが自分で選ぶように援助する。

 

生きる力を育む3ステップとは、

自分で感じる → 自分で考える → 自分で行動選択する

自分で考えるためには自分で感じることが不可欠で、考える脳と感じる脳は不可分に支え合っている。理性は感情の影響を受けなければ決断を下せない。しかし日本では自分で感じることはあまり勧められていない。他の人と同じように感じることが求められる教育現場。

 

 

と、これが「人権の再考」と「生きるちからとしての人権」の項の要約で、ここまでで1時間半の講演の半分ほど。このなかで、「自由とは選択できること」という言葉と、「理性は感情の影響を受けなければ決断を下せない」という言葉が私には印象的だった。

 

日本人が自分で考えることや自分で判断することが苦手なのは、もしかすると空気を読んでみなと同じように感じることを重んじ、「自分で感じる」ことを尊重しない文化も原因しているのかも知れない。

 

国語教育の「この文章を読んでどう感じましたか」とか「傍線の部分で、登場人物のAはどんな気持ちだったでしょう」などの設問は、明らかに一つの模範解答に導きたがっていると思う。

 

後半ではエンパワメントについての誤解と、怒りの感情には健康な怒りと暴力に変わる怒りの2種類あることや、その怒りの仮面の裏側にある傷つき体験、などの話だった。

 

 

そして講演の後グループに分かれて、心に残った言葉を参加者全員がカードに書きだしたり、ペアになって共感的傾聴のスキル練習をしたりした。予定の3時半を過ぎても講師の森田先生は熱心に話を続けていらしたが、次の予定が入っている私は、申し訳なくて小さくなりながら退出しバス停まで走った。

 

今日の講演会出席もいろいろつながりがあって・・・だったのだけれど、なかなか面白かった。そして、今日のタイトルにした「体罰と戦争は似ている」という言葉との出合いもあった。

 

どちらも、

良くないと分かっているのにやめない。

大儀名分がある。体罰はしつけのため、戦争は正義のため、自由のため、平和のため。

 

体罰は本当にしつけの手段?

戦争は平和のための手段?

「国民のため」「子どものため」と言いながら、傷つくのは常に社会的、経済的、体力的に弱い人たち。

 

 

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今日は寒かったです。

夕方から参加の方はダウンジャケットの方も・・・。

私は昼頃からずっと出続けていたので薄着で寒すぎ、本日早引け。ゴメンナサイ。

写真はスタンディングの会のFBのサイトより。 

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今日の講演会場でもこのチラシを配らせてもらいました。

お子さん連れで参加してもらいたいものです。

チビちゃんの可愛い仮装大歓迎!