よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

さらに『しのびよる破局』辺見庸著

この本はまだ東日本大震災も起きていない2009年に出版されたものだ。けれども今読んでもまるで違和感を感じない。「ああ、これは解決されてしまったな」とか「現在は軌道修正されているな」とか思えることがほとんどなかった。つまり我々にはますます破局がしのびよっているのではないかと思われる。

 

2009年ということは、リーマンショックの直後だ。世界中が金融資本主義の荒波を受けて大混乱をきたし、日本では生き残りの競争のため弱者がどんどん切り捨てられていった。著者辺見庸氏は、秋葉原の無差別殺傷事件を象徴的なものとして見ている。

 

「いまの社会は、人間の生体に合っていないのではないか。合っていないからこそ、断層ができ、ひずみができ、それが痙攣のように、発作のように、ある種の生体反応として、こらえきれなくなって起きる瞬間があるのではないか」と言っている。

 

「たとえば人間と人間の関係が商品や貨幣の姿をとってくる。ぼくという人間が、年収いくらの人間であると、それがあたかもぼくの生来の決定的価値のように判断されてしまう。そうでしょうか。人間の価値が貨幣で表現できるものでしょうか」という著者の問いは私の長年の問いでもある。(メディアがスポーツ選手の契約金や年俸、獲得賞金など熱心に報道するようになった影響と思うが、人々が関心を持ち売れる話題だからとメディアは言うだろうから、これは卵と鶏の論争になってしまうが)

 

こうした単一の価値観で、しかも無慈悲に「勝ち組」だの「負け組」だのと断じる社会で、切り捨てられ傷ついた人が自ら命を断つという選択をする。毎年毎年3万人以上の人が自殺で亡くなるこの国は、人間の「内面の戦争」状態にあるのではないかと著者は言う。しかも未遂に終わっているケースも考え、「不審死」で片付けられることも考えれば、毎年およそ30万人以上の人たちが死のうとしている。

 

「『この国は憲法九条があって戦争をしていません。人を殺していません』というけれども、どこかに視えない暴動が、大量自殺という『内攻的な暴動』が起きているとおもう。どこかそれは不可視の戦争みたいに異様なものだという直観をずっと十数年まえからぼくはいいつづけてきた。」

 

そして辺見氏は憲法九条と二五条(生活権社会権の保障)の危機について論を進め、「これからは二五条だけでなく、連動してまちがいなく九条もますますないがしろにしていくでしょう。・・・中略・・・同時にナショナリズムが起きて、九条的な不戦思想、非戦思想が薄まり、外側にたいして戦闘的になっていく。」と、もう預言者のようだ。

 

つまり今安倍政権のやっていることは、愚かな現代の人間が陥りそうな病状として辺見氏が何年も前から危惧していたこと、そのものなのだ。「優先されるのは人ではなく国家で、生命体としての人間は裸で路上に放りだされようとしている」と言う。

 

 

166ページの薄い本ながら付箋だらけになっているので、こうして挙げていくととても長くなってしまう。この本は2009年1月にNHKのETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」の内容を再編成し加筆修正して出版されたものだそうなので、その番組をご覧になった方もいるだろう。その頃はNHKもまだこのような良質の番組を作っていたのか、とため息が出そうだ。

 

長くなりすぎるので最後に飛ぶが、辺見氏は「燎原の火のごとく何かが変わっていくのか。どんどん燃えひろがって、ついにたくさんの人が起ちあがって動きだすのか。暴れだすのか。・・・中略・・・日比谷公園派遣村のような場所に何千人もの人がきて困っている人を助けようとする、百万もの人びとが怒ってデモをして抗議しようとする。そういう見たこともないような、あるいはかつてあったようなダイナミズムと他の痛みへの同調が、これから生まれるのか。あるいはかつて経験したことのないようなものが見えるのか、ほんとうに見たい。」と書いている。

 

これもまた預言者のようだ。現在のSEALDsを始めとする人びとの抗議活動を思わせる。まさに明後日予定されている全国一斉の抗議デモの百万人という人数まで符合している!

 

タイトルに私は「さらに」とつけ、6年たってもほとんど状況は変わっていないと書いたけれど、もちろん本当は変えたい。変えなければいけない。このまま破局に向かっていいはずがない。

 

ぜひ、「かつて経験したことのないようなもの」を辺見庸氏に見ていただこう。希望の持てる未来についての、新しい本を書いていただこう。

 

 

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