よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

難しかったけど、がんばってハンナ・アーレントを学んだ

時々加えてもらっている、「らんぷの会」というグループの春の講座に参加した。テーマは『人間が「複数」であることの意味 ハンナ・アーレントが考えたこと』。わっ、難しそう!講師は名古屋で「炉端酒房 六文銭」を30年ほどなさったあと、文筆業をしていらした三嶋 寛さんという方だ。

 

ハンナ・アーレントは、少し前に同名の映画がミニシアター系であるにもかかわらず、結構話題になったようなので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれない。ちなみに私は知らなかった。

 

私のような方のために少し紹介すると、Wikipediaでは以下のようになっている。

ハンナ・アーレントHannah Arendt, 1906年10月14日 - 1975年12月4日)は、ドイツ出身のユダヤ人アメリカ合衆国に亡命した哲学者思想家。主に政治哲学の分野で活躍した。全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる。小惑星100027「Hannaharendt」は彼女に敬意を表して命名された。

 

今日の資料には『ハンナ・アーレントはどんな人という問いには、「20世紀、もっとも聡明だった女性」と並んで「20世紀、もっともスキャンダラスだった人」という答えが返ってきそうです。ハンナ自身は、あなたは何者かと問われて、「私はユダヤ女」と答えています。これもまた彼女が一生手放さなかったキーワードです。彼女の波乱に満ちた生涯と寄り添いながら、彼女が何をどう考えたのか、そして彼女が21世紀に残した宿題が何であるのかを体験してみたいと思います。』とある。

 

う~ん、やっぱり難しそう・・・かな。

 

映画のほうは意外にもこの「スキャンダラス」には触れず、彼女がナチスの親衛隊将校で、数百万人ものユダヤ人を収容所へ移送したアドルフ・アイヒマンの裁判で、自ら希望して彼の裁判を傍聴しそのレポートをザ・ニューヨーカー紙に寄せた、その点に絞って作られていたようだ。

 

そのレポートは「彼は残虐な殺人鬼などではなく、ヒトラーの命令どおりに動いただけの〝平凡な人間〟なのではないか」というような内容で、発表後、世界中で大批判を巻き起こした。人々はハンナが鬼畜アイヒマンを擁護したと受け止めたのだ。

 

けれども彼女の真意は違う。自分で考えることをしなければ、誰でもがアイヒマンになり得る、罪は人の残虐さではなく、「考えないこと」だと指摘したのだ。

 

なんと鋭い指摘だろう。あなたも私も、状況次第でアイヒマンになりかねないのだ。確かに先の戦争でも、多くの日本人がそうなった。犠牲にした人の数に違いはあるかもしれない。あるいは前線に限らず、銃後でも同じことが言えるのではないか。本当に自分の頭で考え、これはやはり絶対的に許されない行為だと、命令に背く勇気が持てるだろうか。

 

講義はこうした具体的な話ではなく、「帝国主義全体主義」とか、「活動的生」だの「人間疎外」だのと抽象的な話に終始してかなり難解で、時々私の安物の「灰色の脳細胞」は悲鳴を上げそうになった。睡眠不足気味でしかも昼下がりの心地よい時間帯であるにもかかわらず、居眠りをしなかったことだけでも自分をほめてやりたい。

 

本論は難解で消化不良気味だったけれど、「まとめ」のところに「思考すること」と「活動すること」(ハンナの言う「活動」とは「私的領域から出て公的領域で自分の言説や行為を提示してゆくこと」というようなこと)とあったので、ああ、これはまあまあできているのではないか?と思った。

 

脳の質そのものが大したことないので「下手な考え休むに似たり」の域を出ないけれど、それでも考える努力はしているつもりだ。そして、自分のこと以上に社会のことを憂え、ユネスコなどの活動を通して「言説や行為を提示してゆく」ようにしている。

 

簡単に答えの出ないことを考えるのはとても疲れる。それに比べると流されていくことはラクだ。分からないことは悩んでいるよりネットで検索すれば、とりあえず答えは得られる時代でもある。世の中はますます考えない方向へ向かっているように思う。

 

こんな時だからこそ、ハンナ・アーレントを取り上げる意味があったのだろう。

 

 

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今年もライラックが花をつけたけど、左半分にほとんどつかなかったのはなぜ?

 

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モッコウバラは全体にたっくさんの蕾

 

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姫リンゴの花にミツバチが来ていた。そうそう、受粉お願いね。たくさん実がなるように・・・。