よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

のんびりと、のほほんと。

私はよく書いているように、神経が鋼でできているような人間だ。だからなのか、繊細で生きるのが大変で、悩んだり苦しんだりしている人にひかれる。

息子のような年齢の若者のブログを楽しみに読んでいる。自分を過小評価し、ひとを過大評価し、たいてい苦しんでいる。苦しみながらがんばっている。

ひきこもりから脱して仕事を探せるまでになったけど、不合格になれば落ち込みまた自信を無くし・・・と苦しんでいた。けれどもついに採用されて働き始めた。誰でも新しい職場や仕事に慣れるのは大変、ましてすぐ自分を責めてしまう彼はとても悩んでいた。でも、悩みながらも「絶好調」と頑張っていた。私はなんだかかえってそれが気に掛かった。

そしてそのあとしばらくブログの更新がなく、ついに我慢できなくなってコメント欄で声を掛けた。

それでという訳ではないかもしれないけれど、新しいエントリをアップしてくれた。仕事は徐々に慣れてきているようだけれど、なにせ自分を過小評価する人だから、案じたとおり悩んでいた。



ニートとかひきこもりとかいう言葉を聞くようになって大分たつ。その言葉には「ちゃんと独り立ちできない人間」というような評価がくっついている。確かに親のすねを齧っているのであれば問題かもしれない。自然の摂理に従えば必ず親は先に死ぬのだから。そのあと路頭に迷うことになる。

けれども十分な蓄えがあるとか、自分で行政の援助制度を申請するなどしてブラブラしているのであれば、構わないのではないか。勤勉な日本人はどうしても「働かざる者食うべからず」という意識に縛られてしまいがちだけれど、本当にそうなのだろうか。

機械のない昔は人間が一日かかって耕せる土地の広さはごく限られていた。衣服を作るにしても何にしても、産業革命以前の生産性は僅かなものだったろう。その頃を思えば現代の生産効率は、人口の増加を踏まえても十分すぎるほどに上がっているはず。贅沢を望まなければ、ごく一部のオペレーションする人やメンテナンスの人以外は、機械に任せて遊んでいても世の中は回るはずだった。

けれども人間社会はそうはならず、もっと多くのものを所有しようよ、もっと便利にもっと贅沢に・・・と欲望を刺激し続け、なんだか機械のなかったころよりも人々は遥かに忙しげに夜も寝ないで働いている。


昔、と私が思うのは自分が物心ついた昭和30年代ころのことだけれど、まだまだ時間が人間のリズムで刻まれていて、人と人が迷惑をかけても「困った時はお互いさま」「情けは人の為ならず」という感覚で世の中がゆったりしていたと思うのだが、あののどかさは専業主婦(と、のちに呼ばれた。当時は当たり前すぎてそんな呼称すらなかった)の存在に負うところも大きかったのではないかと私は思っている。

時間に余裕のある主婦という人たちが、世の中の様々な「仕事」とまでは言えない雑多なことを片付けたり、お役所の行き届かない部分をカバーしたりしていたのではないか。自分の子供だけでなく、近所の子供達みんなに目が届き、誰彼かまわず必要な子には必要な手を出したり口を出したりした。

近所の子たちがみな幼稚園というものに行くのに、私は行けなかった。母が家計の足しにと小さな駄菓子屋のようなものをしていたので、兄や姉が学校に行ってしまったあと、どうしても仕入れなどで母が家を空ける時に私がいれば、店番として戦力になるからと行かせてもらえなかったのだ。

近所の人が母に「〇〇ちゃんはえらいね、ちゃんとお釣りも間違えないでくれたよ」などと言ったという話をよく聞かされたが、これなどもそれで何ら問題が起きない、近所のおばちゃんたちの目がちゃんとあった時代だったからこそ成り立ったことだろう。現代なら小学校入学前の女の子が店番などしていたら、どんな悲劇が起きるやもしれない。

私を産んだ後母が病気をしたものだから、8歳上の長兄は私を負ぶって近所の子供と遊んだし、よちよち歩きの子も子供の集団について歩いたけれど、ちゃんと高学年で面倒見のいい子が目を配っていたのか、誰かが怪我をしたとか困ったということはなかったように思う。だから保育園もなかったけれど待機児童という言葉もなかった。

だから昔に戻れというのではない。時間は決して後戻りはしない。ただ、もっとゆったり考えてもいいんじゃないか、と思うのだ。人と交わるのが苦手、職場になじめない、時間を気にしたり効率よく仕事したりができないなどなど、一般的にはマイナスと判断されてしまう傾向の人もいるだろう。少し前にシロクマ先生が「テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの?」というエントリを書いていらしたが、本当に現代はごく一部の能力を待つ人だけしか評価されない時代だと思う。

社会に出るとごく一部の能力しか評価されないのに、学校時代は「個性を伸ばす」という美辞のもとに唯一無二の自己の存在意味だの存在価値を求められるものだから、素直で真面目な人ほど、価値ある自分にならなければと思い込んでしまう。でも人間なんて、神童と思われた人でさえはたち過ぎればただの人になってしまうものなのだ。まして普通の人間なら、自我に目覚める年頃になるころには、あまりの自分の普通さや、ともすると普通以下(本当は何が「普通か」などは分からないが)とさえ思えてしまう自分にみじめになったり、悲しくなったり、情けなくなったりする。必要以上にそんな自分を責めてしまう。要領のいい人や私のように神経が鋼だったら、開き直ってしまうこともできるのだけれど。


人間は普通でも、普通以下でもいいんです。

特別な存在になんて、特別な人しかなれません。

でも、誰でも幸せにはなれます。

朝ちゃんと目覚められる。

空が青い、空気がおいしい、コーヒーがうまい、猫が今日も生きてる・・・。

だいたい、鉄砲の弾が飛んで来るかとか心配しなくていい国に住んでるし。

今日の飲み水や食べ物の心配もしなくていい。

どうしても何か困ったら、近くにいる人や役所を頼ってみよう。

日本語が通じるんだし、きっと誰か、手を貸してくれる人もいる。

ブラブラしててもいいじゃない。

世間の人みんなが忙しいとギスギスした世の中になっちゃうからね。


それに、自信満々に見える人も余裕しゃくしゃくに見える人も、

案外自分の心の中ではビクビクだったりするのかもしれません。



楽しみに読んでいたブログが止まってしまったり、なくなってしまうのは寂しいです。

とにかく、今日もあなたが元気でいてくれること。

それが私の喜びでもあります。

傷つきやすいハートを持った、若い人たちへの私の願い・・・。