よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

『赤目四十八滝心中未遂』車谷長吉著

社会の底辺に暮らす人々の猥雑な風景を描きながら、実に清らかな話だという印象を受けた。有名大学を出ながら会社勤めの生き方になじめず、自ら無頼の世界に落ちていく主人公生島も、その生島が惹かれていく美貌の女アヤも、ずるく立ち回る気になればもっと楽な人生を生きられるのにそうしない。


名前は知っていたけれど、著者の作品を読んだことがなかった。この夏市民館で『飆風(ひょうふう)』を借りて読み、身を削るような厳しい生き方に惹かれ、他の作品も読んでみたいと思い、この作品を選んだ。当時あまり賞に興味がなかったのか、直木賞受賞作であることも知らず、映画化されたことも知らなかった。音訳ボランティアの勉強会で、この作品を受け持っている人がいて録音を持って来ていたのを覚えているけれど、なぜかありきたりの推理小説とばかり思いこんでいた。

これが直木賞とはいささか驚く。大衆的ではない気がする。確かに物語の舞台は尼崎の吹き溜まりのような街で、赤裸な性描写もあるけれど、描かれている精神性は高く、世俗からは離れている。むしろ芥川賞の方が納得できるように思う。が、賞自体それほど意味がないのでどちらでもいいけれど。

登場人物は、いわゆる「普通」の暮らしをしていれば、生涯出会うことがないような人たちばかりだ。怪しげなアパートの一室でひたすら病死(らしい)の家畜の臓物を切り串に刺す男、その臓物を焼いて客に出す店の女主人、刺青の彫師、その彫師と一緒にいる、背中に迦陵頻伽の刺青をいれた美貌の女・・・。なのにそれらの人物がみな自分の世界に今にも現れそうにくっきりと描き出され、またなんともみな格好いい。

もとからその世界の住人で、そしてこれからもずっとその吹き溜まりで生きていくであろう彼らの格好よさに引き換え、主人公は情けない。自分を欺いて勤め人として生きることもできず、かといって彼らの世界からもはずれ、自分に飛び込んで来ようとする、泥の中に咲いたハスのような女と心中を遂げることもできない。あまつさえ、再び会社勤めの生き方に戻って物語は終わる。


物語として読む時には、車谷氏の描き出す妥協を許さない厳しい生き方が魅力的だけれど、実際にうつつの世を生きる身としては、適当にいい加減であるほうが幸いだ。演技終了後に何針も縫う怪我を負いながら、棄権という選択肢を選ばないトップアスリートや、後世にまで残るようなクリエイティブな仕事をする人は、本当に大変なことだと思う。太宰の言った「選ばれてあることの恍惚と不安」というギフトを、神様からもらってしまっている。

凡人はもっぱら、そうした選ばれた人々のなすことを鑑賞し、楽しませていただく。