よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

サバイバーズ・ギルトなるもの

今日のニュースでこの言葉を知った。戦争や災害、事故などで奇跡的に生還した人が、他の人が亡くなったのに自分が生き残ったことに罪悪感を抱いてしまうことを意味する言葉。もちろん東日本大震災のときにも、今回の御嶽山のときにも、助かった方たちが少なからずそういうことを口にしていらしたことは知っていた。戦争で生き残った方たちにも、長い間その感情で苦しんだ方は多い。けれどもそうした感情を意味するサバイバーズ・ギルトなる言葉は初めて聞いた。

調べてみたら、日本では2000年代あたりから認知度が上がってきたとあった。日本語でこれにあたる言葉がないというのは、そういう現象に社会が比較的無頓着だったということだろうか。あるいはこうしたことも大家族や絆の強い地域社会の中で、いたわり、癒し、大きな問題にならなかったのだろうか。近年では大きな事件や事故があると、決まって「心のケアを・・・」と言われるようになったけれど。


今回の御嶽山の事故でも、運良く助かった人が大変な思いをしたことを話していると、「そんなところに行くからだ」と心無い言葉を投げかけ、すでに罪悪感で苦しんでいる方をさらに苦しめているケースがあるという。そんな厳しいことを言う方は、危険のある所には決して行かないのだろうか。いや、危険のないところなんてそもそもあるのだろうか。

確かに「台風が接近して荒れている海でサーフィンをしていて行方不明・・・」なんてニュースを聞くと、いくらサーファーにとって大きな波が魅力的だといっても人騒がせな、と思ってしまう。明らかに少々行為自体に無理があったのでは、と思われることもないことはないが、あまりに自己責任論を何にでも当てはめるのは酷なことだと思う。

一旦事故や災害が起きれば大変な数の方たちが救助や捜索に携わる。時には二次災害に遭われる方もいる。それが無謀なレジャーのためであったりすれば、直接関わる方々はもちろん不本意な思いも抱かれるだろうし、税金が使われることを思えば、納税者の立場でも少々複雑な思いが湧かないでもない。けれども自然の前には人間はあまりにも無力だし、人生はいつどんな事件に巻き込まれるかも分からない。不可抗力なことも多いのだ。自分だったらどうだろうかと想像することを忘れないようにしたい。

サバイバーズ・ギルト。抱こうなどと思わなくても生まれてしまう感情なのだし、抱いたところでどうなるものでもなく、一番苦しんでいるのは当の本人だ。慰めることもなかなか難しいが、さらに辛い思いにさせるようなことは避けたい。



御嶽山の噴火から一か月。亡くなった方々の冥福と、体や心に傷を負われた方々が、少しでも早く回復されることをお祈りいたします。