よんばば つれづれ

民主主義を機能させる、自立した「ひとり」でありたい

今を生きる

昔この題名の映画があった。先ごろ亡くなったロビン・ウィリアムズさんの主演で、心にしみる良い映画だった。全寮制のエリート養成学校で厳しい規則に縛られて過ごす高校生たちに、ロビン扮するキーティング先生が「自分らしく自由に、今を生きろ」と説く。

指導者にとっては、高い目標に向かって自律的に努力する市民は都合が良い。だから良い学校に行き良い仕事につき、きちんとした家庭を築くことを社会の成功モデルとして人々の意識に植え付ける。日本も戦後の価値観総崩れの精神的物理的廃墟の中から、このモデルを目標に国民を頑張らせた結果、経済大国を築き上げた。目標はさらに分かり易くするために、時にテレビであったり、マイカーであったり、マイホームであったりした。

子供らしく呑気に遊んでいられる期間はわずかで、中学校では良い高校を目指し、高校に入れば良い大学を目指さなければならない。やれやれやっと大学に合格して上がりかと思えば、大学出というだけで「末は博士か大臣か」と言われた昔と違い、さらに有利な就職のために努力しなければならない。

めでたく正社員として就職できれば仕事に忙殺される日々が続き、そうでなければ常に不安定な仕事に悩まされる。うまく結婚できても何十年ものローンを組んでマイホームを持たねばならない・・・。どこまでいっても、じっくり考えたりのんびりする時は来ない。やっと定年を迎えあふれる自由な時間を手にしたときには、楽しみ方が分からない。



日本人はもともと真面目で几帳面な国民性なのかもしれないけれど、さらに儒教の影響もあるのか、勤勉は善で怠惰は悪、働かざるもの食うべからずといった意識が強いように思う。「今を大切に生きる」というとなんとなくいい加減、刹那的、享楽的といったマイナスの印象がある。けれども考えてみれば、今の一瞬一瞬を大切に生きる積み重ねが、いい加減なものになるはずはない。今を味わい楽しんで生きる人生に、意味がないわけがない。

思春期に読んだ『あしながおじさん』に「人々は遥か先のゴール目指して息せき切って駆けていくために、周りの美しい花や景色に気が付かない。そしてゴールしてしまってから、急いだことに大して意味がなかったと気づくのだ。私はかけっこに負けてもいいから、途中の美しいものを充分楽しんで生きたい」というようなくだりがあった。主人公ジュディがおじさんに宛てた手紙の一節だ。私は競争したら何としても勝ちたい性格だったためか、その部分にとても衝撃を受けた。そうして私もジュディのように美しいものを見落とさないように生きていきたいと考えるようになった。

成長するにつれて周りのメンバーが選別されていって、簡単には競争に勝てなくなっていたので、あるいはその言葉に逃げたのかも知れない。けれども、やはり確かにこの言葉は大切なことを言っていると思う。


無理に自分を探したりしないで、誰かの希望の型にはまろうなんてしないで、ありのままの自分を大切に、周りとふれあい喜び合って、困ることは助け合い励まし合って、今日一日をいい日にしよう。明日のために我慢するのではなく。


自分で考えて、本流から外れても迷わず自由な生き方ができる人もいるけれど、多くの人は流されて生きている。疑ってみることさえせず、ひしめく競争の流れの中で喘ぎ、溺れそうになっている。さまざまなことが大きく変わりつつある今、人間の価値観や生き方ももっと大胆に自由に変わっていい。流されている人にそうしたことを気づかせる、それだけでも随分世の中の雰囲気は変わるのではないだろうか。

へうたむさんとのやり取りの中で、そんなことを考えた。メディアは、もっともっと従来の固定的な見方をとっぱらった考えを発信してほしい。今までの価値観やシステムではいずれ行き詰ってしまう。既得権を持った逃げ切り世代は、今まで通りのほうが何かと都合のいいことが多いかもしれない。だからメディアもお偉い方々もあえて新しいことは言わないのかも知れない。


人生とは重き荷を負うて遠き道を行くがごとしと言うけれど、その道すがらにも清い小川は流れ美しい花は咲いているはず。